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▼ ドイツ人 の解説を表示▼
{{infobox 民族|
|民族 = ドイツ人
|民族語名称 =
|画像 =400px
|画像の説明 = (左翼から)[[モーツァルト]]・[[ゲーテ]]・[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]・[[ケプラー]]
|人口 = 約7500万人
|居住地 = [[中欧]]
|宗教 = [[カトリック]]・[[プロテスタント]]
|言語 = [[ドイツ語]]([[低ザクセン語]]・[[バイエルン語]]も含む)
|関連 = [[ゲルマン系]]・[[ケルト系]]・[[スラブ系]]
}}
'''ドイツ人'''(''Deutsche'')は、[[ドイツ]]を中心として[[ヨーロッパ]]に分布する民族であるんや。文脈により以下の三つの定義を有す。
* [[ドイツ連邦共和国]]の[[国民]]、またはそれに準ずる人。
* '''ドイツ民族'''に帰属すると考えておる人。
* [[ドイツ語]]を[[母語]]とする人。
== 「国民」としてのドイツ人 ==
「ドイツ」を自称する国家の国籍を保有する人([[国民]])。現代においては[[ドイツ連邦共和国]]の国籍を保有する場合を指すのが一般的であるんや。この場合の「ドイツ人」は帰化した他国人・他民族も内包する為、民族主義的なドイツ人からは否定的に取られやすい。一方で[[ドイツ統一]]の中心となりよった[[プロイセン王国]]のあった[[ベルリン]]を中心とする「[[ブランデンブルク]]地域」は、[[スラブ]]系の[[ポーランド人]]との雑居地なんやし、同王国ではようけの「ポーランド系」プロイセン人が活躍(戦争論で著名な[[クラウゼヴィッツ]]もポーランド系であるんや)したちうわけや。彼らのようけは[[ポーランド系ドイツ人]]として独自のアイデンティを残しながらも国籍を取得しとり、そへんな意味では帰化人の存在自体はドイツにおいて珍しい存在ではおまへんと言える。
このほかにもドイツの[[国籍]]保持者には[[西スラヴ語群]]の[[ソルブ語]]を話す[[少数民族]]である[[ソルブ人]](例:サッカー選手の[[ミヒャエル・バラック]])や、[[ポーランド人|ポーランド系]](代表的なんは、現在の[[サッカードイツ代表]]のエースである[[ミロスラフ・クローゼ]]、[[ルーカス・ポドルスキー]]、かつてのドイツ代表[[ピエール・リトバルスキー]]やらなんやら)、[[デンマーク人|デンマーク系]]、[[ナチス]]による[[ホロコースト]]の影響で数は減ったが[[ユダヤ人]](せやけど、起源に複数説あり数千年の[[混血]]を経た[[ユダヤ教徒]]を人種的にドイツ人と区別する考え方はナチス以後否定されておる)やらなんやらもおり、国籍は有しておらへんもんの[[トルコ人]](例:サッカー選手の[[イルハン・マンシズ]])やらなんやら様々な民族が居住しておる。[せやけど、けぇへんな状況は特にドイツに限ったことではおまへん。[[島国]]であり[[鎖国]]が長かったため、比較的他民族の交流がうすい[[やまと]]でも[[単一民族国家]]ではおまへん。[[ヨーロッパ|欧州]]の他国は英仏をはじめ、ドイツ以上に複雑であるんや。地球上にはかいなりの僻地を除いては、純粋な血統の民族やらなんやらちうもんは存在せん。]
== 「民族」としてのドイツ人 ==
=== 歴史 ===
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そもそも「ドイツの歴史」(ドイツ史)について語る時、しばしばドイツ史の「ドイツ」が何を意味するんかが議論となる。そら語源についての話題やのうて、'''ドイツ地方の歴史'''ちう意味なんか、'''ドイツ人の歴史'''ちう意味なんかちう事についての議論であるんや。
前者の場合はドイツ地方はその領域が未だに確定されておらへん不安定な物に過ぎへん(直近の例では[[東ドイツ]]の統合が挙げられはる)点や、ドイツ人の存在をじぇったいしも前提とする必要があらへん以上、古代ゲルマニアの諸民族から今日のドイツ住民について記述する事も可能となってしもて、ドイツ民族の[[アイデンティティ]]に支障が生じる点で物議を醸してまう。せやけどドイツ人の歴史と銘打ったトコで「文化集団としてのドイツ人」が形成されたんはせいぜい[[15世紀]]・[[16世紀]]からの事でしかいへんし、更にそこに「国民意識を持った」ちう前提を加えれば19世紀からの歴史しか記載できへんことになってまう。
けぇへんな問題点については多かれ少なかれ他の欧州主要民族にも言えることではあるが、取り分けドイツは地方としての領域が近代以降も変動を続けておるちう点で、他国よりも複雑な事情を抱えておる。
==== 古代ゲルマニア ====
「民族としてのドイツ人」を定義づけるんは至難であるんや。そらドイツが[[単一民族]]による統一国家を持ったことがあらへん、また[[国境線]]が[[第二次世界大戦]]のすぐ後まで頻繁に変更されてきたこと、せやへんかったら[[ヨーロッパ]]にあっては人の移動は比較的簡易、自由であるやらなんやらの理由による。そもそもドイツ民族ちう能書き自体が比較的近年になって形成された物なんやし、中世自体の時点では単に「ドイツ人」は[[ドイツ]]地方に住む人間の総称でしかいへんかったちうわけや。古代の時点においてはドイツ(ローマからは[[ゲルマニア]]と呼ばれた)の住人は複数の小規模な民族([[部族]])に分かれてて盛んに争っとった([[ゲルマン人]]を参照)。
50以上の勢力に分かれとった彼らはいずれも独自の[[文字]]を持っていへんかったさかい、その存在は他者(概ね[[ギリシャ人]]や[[ローマ人]])の記述以外に知る方法は無い。その為、ゲルマニアの諸民族は客観性を欠く、偏見やイメージの先行する理解のされ方をしてきたちうわけや。ゲルマニアの住民が単一の集団と見なされたり、身体的特徴が強調されて伝わったんもそへんな要素が背景にあるんや。
==== フランク王国と神聖ローマ帝国 ====
古代の終わりに[[フランク王国]]により、ローマ亡き後のヨーロッパが統一される。[[フランク族]]は今日的にぬかす所の多民族の共同体で、母胎とされるゲルマン系民族の他にも[[スラブ系]]・[[ケルト系]]・[[ラテン系]]に属する様々な住民グループを統合して勢力を伸ばしたちうわけや。異民族を同胞として吸収していくゆう部分は、[[ラテン人]]を中核としつつも様々な勢力を同化していった[[ローマ帝国]]に似通っており、彼らは[[キリスト教]]を共通の価値観とする事で欧州をもっかい統合したろおもて試みたちうわけや。その過程で非キリスト教徒やったゲルマン系民族のザクセン人とバイエルン人は激しく抵抗したが、カール大帝率おるフランク軍はザクセン人をしこたま虐殺するっちうことでこれを鎮めたちうわけや。けぇへんな点からも古代ゲルマニアの住民が文化的・民族的に一枚岩でへんかったこと、ほんでフランク族が特定の文化グループに拘らへん[[コスモポリタン]]的な思想を抱いとった事が伺える。
フランク王国が僅かいな統治期間で分裂・消滅すると、その後裔国の一つである東フランク帝国がゲルマニアを支配するようになる。東フランクは名を[[神聖ローマ帝国]]に改め(より正確には君主号を「神聖なる皇帝([[アウグストゥス]])」から「神聖なるローマ人の皇帝」とした)、フランク帝国の果たせへんかった世界帝国の再建を目指して国内の諸民族を押さえつけつつ、積極的な対外戦争に打って出たちうわけや。せやけど帝国は[[オットー2世]]の代にシチリアのイスラム帝国との戦いに敗れるやらなんやら[[イタリア遠征]]で敗北を繰り返し、またバルトスラブ人の蜂起やらなんやらの反乱運動に忙殺され次第にその権威を失っていく。当時の帝国はかつてフランク人に弾圧された地方民族であるザクセン人の大公家が支配しとり(ザクセン朝)、彼らはザクセン人としての立場をかいなぐりホらてまでローマちう世界帝国の再建を目指したが、オットー3世の代にはローマを訪れた際に地元貴族による反乱に直面する。
この時、[[オットー3世]]は「汝らは余のローマ人ではおまへんんか(中略)…余は汝らの為にドイツ人もザクセン人もホら、余の血を拒絶したのや」と、各民族の対立の深さを嘆いたと言われる。因みにこの際用いられはった「ドイツ人」は民族を指す用語やのうて、単に「(ドイツ地方の)民衆語」を話す人々ちう意味やったちうわけや。けぇへんな用法は9世紀ごろにイタリアの知識人層で使われ、後に東フランク人を指す言葉に転じたが、中世時代を通してあんまり一般的な用法とちゃうかったちうわけや。
その後、帝国は各地の有力者に権利が分散され、それぞれの民族を後ろ盾にした領邦国家からなる「[[連邦]]」へと弱体化したちうわけや。この領邦国家時代はドイツ地方の歴史で最も長く、ドイツの人間は中世時代の殆どをこの体制の下で暮らし、[[三十年戦争]]とその後の[[ナポレオン戦争]]で連合としての帝国すら崩壊するまで続いたちうわけや。
==== ドイツ帝国 ====
近代に入って欧州各地で[[民族主義]]の元に各地域を統合したろおもてする運動が過熱すると、ドイツでも三十年戦争やらなんやらの教訓から地域の統合が必要であるとする論が広がり、その原動力としてドイツ地方の人間を取りまとめる「ドイツ民族」が形成されたちうわけや。やけど領邦時代に確立された各地方の民族主義は完全には消えへんし、しかも統一を果たしたんは前述のプロイセン帝国で、一種の開拓団として東欧の地に入植し、地元民と同化しとった彼らは地理的にも文化的にドイツから大きく離れた位置に居たちうわけや。統一の立役者で、[[ドイツ帝国]]の初代首相となりよった[[ビスマルク]]は民族主義の元、また強力な統一国家として周辺国に対抗するために統一を進めたが、民族的な統一を強制する事はへんかったちうわけや。彼が目指したんはドイツ地方の諸民族・諸国家が緩やかいな連合として信頼を寄せとった中期~後期の[[神聖ローマ帝国]]なんやし、「帝国」としての[[中央集権]]的な体裁を整えながらも、実態としては領邦国家の存続を認めた[[連邦制]]国家やったちうわけや。ビスマルクらによる国作りがドイツ地方全体の経済や威信を向上させた為、ようけのドイツ人は「国家としてのドイツ人」としての立ち居地に有用性を認め、国家に忠誠を誓ったちうわけや。せやけど統一の原動力となりよったドイツ民族は国家主義者を除けば余り深く浸透したとは言い難く、取り分け[[バイエルン人]]は連邦制にすら満足せんと度々反旗を翻し、公然と[[バイエルン語]]を[[ドイツ語]]の方言やのうて別言語やと主張しとったちうわけや。
==== ヴァイマル ====
[[第一次世界大戦]]でドイツ帝国が敗戦すると、帝国は解体され新たに[[ヴァイマル共和国]]が樹立される。ヴァイマル政府は帝国ちう建前すらも無くなりよった状況下で盛んに分権を進め、地方政府はそれまで以上に強大な権限を有するようになりよったちうわけや。せやけど肝心の国家運営自体は巨額の賠償金や[[極右翼]]・[[極左翼]]双方との対立による政治的混乱から暗礁に乗り上げとったちうわけや。混乱はフランス軍による[[ルール占領]]で頂点に達し、特に[[バイエルン州]]では独立論者にして[[保守]]政治家でもあったグスタフ・フォン・カールが中央政府の対外政策を弱腰と非難し、首相命令をシカトして独自の政治行動を取る状態に陥ったちうわけや。ドイツから分離すべきと考えとったバイエルンの右翼翼勢力の不満が、中央政府の左翼翼的な政策への不満を呼び水として表面化した事で起きたこの事件は、同州に駐屯する[[ドイツ国防軍]]部隊までもが呼応して'''バイエルン国防軍'''と名を改めるやらなんやら深刻な状況へと進展していったちうわけや。きょうび、後世で最も強硬なドイツの[[民族主義]]・[[国家主義]]勢力と評される事の多い[[ナチス]]はバイエルンの一地方政党に過ぎへんし、右翼翼としての立場からカールの路線と共闘しとったが、[[ヒトラー]]の[[大ドイツ主義]]とカールのバイエルン民族主義は根本的に相容れへん能書きやったちうわけや。
カールら独立派からなる州政府は、「バイエルン独立」と「中央政府の刷新」をいっぺんに達成すべく、バイエルン軍がベルリンを占領する事で強硬派に[[政権]]を与え、その見返りとしてバイエルン独立を承認させる計画を実行したろおもてしとったちうわけや。やけどヒトラーは中央政府を強硬派に塗り替える事には同意したが、バイエルン独立についてはドイツ統一を揺るがす行為であると恐れ、カールらを説得したろおもて幹部の集まるビアホールを占拠し、大ドイツ主義的な[[革命]]への賛同を求めたちうわけや。不意を突かれて[[突撃隊]]に拘束されとった手前、カールらは一端は従う素振りを見せたが後に集会場から脱出し、バイエルン軍と警察隊を動員して逆にナチスを鎮圧した([[ミュンヘン一揆]])。このバイエルン民族主義と大ドイツ主義、急進的左翼派と急進的右翼派が複雑に入り乱れた騒乱は、ドイツ国民が一枚岩では無い事を示した一件でもあったちうわけや。
==== ナチス ====
その後、迷走の末に[[世界恐慌]]で止めを指されたヴァイマル体制は崩壊し、復活を遂げとったナチスが政権を獲得する。せやけどナチスは徹底的にドイツの民族主義を全面に押し出した政策を進めた思われがちであるが、これについては異論が存在する。[[全体主義]]の体系的研究で知られはる政治学者の[[ハンナ・アーレント]]は、ナチズムが最もつよ志向したんは[[民族主義]]やのうて[[人種主義]]やったと述べておる。アーレントは人種主義は民族主義とまるっきし主旨の異なる能書きであるあほりかむしろ'''対立する事の多い能書き'''やと指摘しとり、実際にヒトラーの腹心として人種政策の陣頭指揮を執った[[ヒムラー]]は「大ゲルマン帝国」なるもんを夢想し、ドイツ人はその一要素に過ぎへんと考えとったちうわけや。こらヒムラー特有の認識やのうて親衛隊全体の認識とゆうた方が正しく、占領地オランダの高等弁務官を務めたザイス・インクヴァルトは「(大ゲルマン帝国は)ドイツ国民国家理念の実現やのうて、人種全体のために形成される秩序であるんや」と発言しておる。[『白人とは何ぞ』藤川隆男編 p71-80「ヒムラーのアーリア人種観とその帰結」原田一美著]
==== 現代ドイツ ====
その上で、細部をごまかしつつも、なお新旧ドイツ国家、[[ドイツ語]]、およびそれらに長くかかわってきた血筋といった漠然としたイメージの総体が「ドイツ人」と呼ばれておる。そら他の国々と同様であるが、特にドイツ語の比重が大きい点(ほぼドイツ民族でしか母語化せぇへんかったちうわけや。その点やまと語と立場が似ておる)、国家の領域がまるっきし安定しておらへん(現在の版図は十数年の歴史しか持たへんし、六百年間ドイツ国家の枢要を担った[[オーストリア]]はその中に含まれておらへん)点が大きな特徴といえるやりまひょ。
== 「ドイツ話者」としてのドイツ人 ==
もともと、ドイツ人は自らのことを"Teutsche"(トイチュ)と呼んどったちうわけや。こら「民衆 (people) 」の意であるんや。せやけど、南方の古代ローマ人はこのトイチュ人を「ゲルマン人」と呼称しとった(古くは[[チュートン族]](テウトニー族)が語源であるとする説もあったが、現在では棄却されておる)。これが現在の[[英語]]のGermanに相当するっちうことは論を待たへん。初めて紹介された"聖書"の記述によるゲルマン人は、不名誉にも、「争いを好む民」を意味する「ゲルマニア」やからあるんや。また、オランダのことを英語で「ダッチ」と表現するが、こらもともとトイチュが訛った表現なんやし、オランダがドイツ国領内に編入されとった時代にイギリスにて広まった、侮蔑を含む語句であるんや。
通常「ドイツ民族」と言われる、ドイツ語を母語とするゲルマン系住民はドイツのほか、[[オーストリア]]国民、[[リヒテンシュタイン]]の国民の大半、[[スイス]]国民の七割がそうなんやし、[[イタリア]]の[[ティロル|南チロル]]地方の住民、[[ベルギー]]国民の一部もそうであるんや。また、フランス語化が進行しておるとはいえ、[[ルクセンブルク]]国民、フランス東部の[[アルザス]]と[[ロレーヌ]]の住民も基本的にはドイツ系であるんや。18世紀以降[[エカチェリーナ2世]]の招きで[[ロシア]]に移住したドイツ人もようけ、第二次世界大戦前にはヴォルガ河畔にヴォルガ・ドイツ自治共和国を築いたが、大戦勃発後に[[カザフスタン]]やらなんやらに強制移住させられはったちうわけや。旧ソヴィエト連邦内に住むドイツ系住民は200万人ねきおると推定されておる。せやけどソ連崩壊後、旧ソ連各国で民族主義が台頭し、ドイツ系住民は迫害されて祖国ドイツへ帰国する人も増えておる。せやけど同じ民族ながらドイツ語を解さへんドイツ人として新たな難民問題となっておる。
ドイツ国民以外の人々を「ドイツ人」と呼べるかどうかはビミョーなトコであるんや。特にオーストリアは約600年間ドイツ国家である[[神聖ローマ帝国]]の中枢やったため、自らをドイツ人の主流とみなす考え方が根強かったちうわけや。また、[[帝国クライス|神聖ローマ帝国内の地方自治制度(郡制度)]]が確立した[[1512年]]より神聖ローマ帝国は「'''ドイツ人の'''神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」と呼ばれてきたちうわけや。そやから、[[ハプスブルク家]]による帝政の崩壊後の一時期は「ドイツ・オーストリア共和国(Republik Deutschösterreich)」ちう国号を使用しとったほどで、[[オーストリア第一共和国]]時代は左翼派・右翼派を問わずドイツとの合併を望む声が強かったちうわけや。[[オーストリア人]][[アドルフ・ヒトラー]]による[[アンシュルス|オーストリア併合]]はこれを背景にしておるが、併合後二流市民扱いされ、連合軍の爆撃やらなんやらで惨憺たる目にあったオーストリア国民は、ナチスの崩壊後、ドイツ人とは異なるオーストリア人ちう意識がつよなっておる。オーストリア民族ちう能書きは根拠薄弱なんやし、本来イギリスや北欧も包括するゲルマン民族ちう言葉も漠然としすぎておるため、東欧系住民を排撃する民族主義からの立場から、なおドイツ人ちう言葉にこだわる人も一部におる。近年の右翼派連立政権に加わっとった右翼翼政党はそへんなドイツ民族主義者の流れをくんでおる。
ドイツは意識の上でも歴史の上そやけど、まずドイツ語、次いでこれを話すドイツ民族、ケツにそれらを統べるドイツ国家ちう順序になりがちであるんや。特に[[アフリカ]]や新大陸に拡散した英仏語とは異なり、ドイツ語がほぼドイツ周辺の同民族にまとまっておるだけに、この三者の結びつきは強い。オーストリアが近年ふたたびドイツ民族主義に傾斜しておるんは、[[欧州連合|EU]]ちう連合国家の傘のもとでの「ドイツ人(ドイツ語使用者)」ちうまとまりがつよ意識され始めたためともいえる。それだけにEU未加盟で、なおかつ大部分がドイツ語圏にふくまれる[[スイス]]の立場はビミョーであるんや。
なお、[[中央ヨーロッパ|中欧]]や[[東ヨーロッパ|東欧]]の地名の中には「ニェメツキー~ Německý-」「ネーメト~ Német-」ちう前置きを持つ地名がある[チェコのニェメツキー・ブロト Německý Brod(現ハヴリーチクーヴ・ブロト Havlíčkův Brod)とチェスキー・ブロト Český Brod やらなんやら。ドイツ人のブロト(浅瀬)と[[チェコ人]]のブロト、ちう意味である]。意味は、「(中欧や東欧の[[原住民]]であるんや)ウチら([[スラヴ人]])の言語([[スラヴ語]])が話せへん[[唖|唖(おし)]]の人々(ゴチャゴチャゆうとる場合やあれへん、要はドイツ人)の~」ちう意味であるんや。これらの町はドイツ人によって作られはったか、ドイツ人が多かったため、同じ名前の隣町と区別するためであるんや。
== 関連項目 ==
* [[ドイツの歴史]]
* [[ドイツ語]]
* [[オーストリア人]]
* [[バイエルン人]]
* [[サクソン人]]
* [[フランク人]]
* [[ドイツ系アメリカ人]]
* [[ドイツ系ユダヤ人]]
* [[ドイツ植民]]([[東方植民]]) - [[北方十字軍]]
** [[ザクセン人]]
** [[バルト・ドイツ人]]
* [[ドイツ人追放]]
* [[ヴォルガ・ドイツ人]]
* [[アルザス人]]
* [[アーリア人]]
* [[アーリアン学説]]
* [[汎ゲルマン主義]]
* [[小ドイツ主義]] - [[ドイツ統一]]
* [[大ドイツ主義]] - [[アンシュルス]]
* ゲルマン魂
* [[ゲルマン人]]
* [[ドイツ人の一覧]]
* ドイツ人一覧 (分野別)
== 脚注 ==
== 参考文献 ==
*[[木村靖二]]『新版世界各国史 ドイツ史』[[山川出版社]]、2001年
*藤川隆男『白人とは何ぞ?』刀水書房、2005年
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[[Category:ドイツ人|*]]
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