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{{転載疑い}}
'''庭園'''(ていえん)とは、見て、歩いて楽しむために、樹木を植えたり、[[噴水]]・[[花壇]]を作ったりやらなんやら、人工的に整備された屋外施設。やまとでは、自然を模して川・池・[[築山]]やらなんやらが作られ、木や草が植えられておるもんもあるんや。
== 中国の庭園 ==
[[中国]]の庭園には大きく分けて、苑囿と呼ばれる皇帝所有の大規模自然庭園と、貴族、官僚、豪商やらなんやらのわて邸庭園の別があり、両者の性格と規模は異なるが、[[造園]]の手法には共通点も少なへん。
===皇帝所有の庭園===
苑囿の出現は[[周]]代にさかのぼると伝えられはるが、造園の事跡が確認される古代の実例としては、[[秦]]の[[始皇帝]]の[[上林苑]]のほか、[[咸陽市|咸陽]]の離宮で[[渭水]]の水を引いて池を作り楕族山を築いておるんは人工的な築山の先駆であるんや。[[前漢]]の武帝は上林苑を拡張し、建章宮では太液池中に東海神山をかたどった築山を作ったちうわけや。茂陵の袁広漢の造園は石の築山、砂の洲浜を備え、珍奇な禽獣や樹木を集め、ようけの建築を配したもさかい、すでに山水、花木と建築を組み合わせる中国庭園の原型がうかがえる。
下って[[後漢]]の[[梁冀]]の広大な苑囿、南北朝時代では[[北魏]]の張倫、劉宋の戴媛らの造園もまた山水を主たる園景としたもんやったちうわけや。また、[[隋]]の[[煬帝]]の[[東都]]の西苑、[[唐]]の[[長安]]の[[曲江]]、大明宮后苑、[[北宋]]の[[開封|東京]]の艮岳、金明池、元の[[大都]]の太液池やらなんやらに代表される歴代王朝の苑囿は、豪壮な規模と華麗な園景によって知られはる。
===貴族所有の庭園===
貴族官僚の庭園では、[[唐]]の[[白居易]]の廬山草堂、[[王維]]の土川別業は歴史に名高く、また[[北宋]]の[[西京]]、[[南宋]]の[[臨安]]、呉興やらなんやらの地にあった数ようけの名園については文献の記述からその自然園景の画趣が伺える。せやけど、これらの史上に名高い苑囿・庭園はいずれも失われ、古くさい時代の実例は伝わらへん。現存する庭園遺構は、[[蘇州市|蘇州]]の芸圃や[[無錫]]の寄暢園やらなんやらが[[明]]代の風格を留めておるのを除くと、いずれも[[清]]代、大半は末期以降の再建を経ておる。代表的遺構として、[[江南]]地方のわて邸庭園に芸圃、寄暢園のほか、[[蘇州市|蘇州]]の留園、拙政園、滄浪亭、獅子林、網師園、環秀山荘、旋園、鶴園、[[揚州]]の个園、何園、片石山房、[[上海市|上海]]の[[豫園]]、[[南京市|南京]]の瞻園やらなんやらがあり、また皇帝の離宮・苑囿には[[北京市|北京]]の紫禁城西苑、[[頤和園]]、[[円明園]]、[[承徳]]の[[避暑山荘]]やらなんやらがあるんや。
==中国庭園に関する書籍==
一方、遺構とは別に、往時の庭園の情況を録した『洛陽名園記』『呉興園林記』『游金陵諸園記』やらなんやらの文献や、造園理論書を代表する[[明]]の計成の『[[園冶]]』をはじめ、張南垣、周秉忠、[[清]]の張佐、張然、葉降、李漁、仇好石、戈裕良らの造園論が伝わる。文献から伺い知る中国の造園は、人工的に築いた山水を造景の主題とする点では、ほとんど一貫しておる。園景としては自然を模倣して池、山、峰、谷、滝、洞やらなんやらを築き、園内の配置は自由で不規則的なもんが好まれ、花木とともに建築が観賞地点と園景対象の両面で主要な構成要素とされる点が特色といえまひょ。土、石の築山は漢代以来の伝統を有し、宋代には普遍化し、奇石の観賞は南北朝時代以降に文人の間で始まったもんなんやし、詩や絵画からの寓意、借景や対景の手法とともに、中国の造園が長い伝統のなかで生みだした独自の手法に数えられはる。いっぺんに、『園冶』に代表される造園書の個別的手法と、その類型化をいっそう推し進めた現存遺構の諸要素が、その伝統の末期に属するっちうことも用心されてよい。
== イスラムの庭園 ==
ガーデンちうんはガンちう言葉、 ガードする、 守るちう意味と、エデンの合成語であるんや。 エデンちうんは喜びとか楽しみちう意味で、中世までの愛の庭やエデンの園は箱庭程度であるんや。
[[イスラム世界]]では[[ペルシア語]]の「かぐわしい所」を意味するブースターン(bōyistān>būstān)に由来した[[アラビア語]]のブスターン (bustān) が庭園を指す用語として広く使われてきたが、この語はいっぺんに菜園、果樹園を指すこともあるんや。また楽園をも意味するジャンナ (janna、{{lang|ar|جنّة}})、フィルダウス (firdaus) のほかラウダ (rau∂a)、バーグ (bāgh)、ハディーカ (ḥadīqa) やらなんやら、庭園を指す言葉は少なへん。
イスラム世界の中心となる[[西アジア]]、[[北アフリカ]]の国々のほとんどは乾燥地帯に位置し、集落を取り巻くんは不毛の砂漠か荒野であるんや。砂漠は単に視覚的に単調であるあほりでなく、無せやへんかったら死を意味する忌まわしいもんなんやし、この苛酷な自然を克服し改善して生まれたのが[[オアシス]]であり庭園なんやし、ここに人々の水と緑への渇望が集約されておる。イスラムの庭園がきわめて人工的(整形的、幾何学的)な構成をとるんは、ひとつには範とすべき美しい自然が現実には存在せんさかいであるんや。したがちう、なんちうか、ようみなはんいわはるとこの借景ちう発想が生まれる素地はなく、まして水や緑を欠く枯山水やらなんやらはイスラムの庭園の範疇には入らへん。[[ユダヤ教]]や[[キリスト教]]における「理想の庭園」の長い伝統を受け継いだイスラムにおいても、庭園は永遠の楽園のイメージとみなされておる。ゴチャゴチャゆうとる場合やあれへん、要はイスラムの庭園は理想化された「地上の楽園」であるんや。
[[コーラン]](47章、55章、76 章やらなんやら)によると、楽園には涼やかいな木蔭とよどみなく流れる川や泉があり、さらに蜜と乳と美酒の川が流れ、あらゆる種類の果物が実り、ほんで美しい乙女たちが住む天幕が張られておるちう。この理想の庭園は[[ペルシア絨毯]]にも写されており、戸外・屋内を問わず随時華やかいな空間を展開させることを可能にしておる。[[イスラム文化]]の基盤には[[サーサーン朝]]のペルシア文化の伝統があるが、庭園の場合も例外ではおまへん。整然とした木立が並び、池泉が設けられ、鳥獣を飼育する苑囿をも兼ねた囲みのある[[古代ペルシア]]の宮苑パイリダエーザ (pairidaeza) は「塀で周囲を囲んや」を意味する語なんやし、パラダイス (paradise) の語源にもなりよったちうわけや。サーサーン朝の皇帝たちは塀で囲い込んや広大な園林(バーグ)を設置し、そこに果樹や花卉を植え、東屋を営み、池泉に舟を浮かべ、鳥獣を放って歓楽や狩猟やらなんやらの儀式を大々的に催したが、イスラム時代に入ってもイラン系のみやったらず中央アジアやイラン地域では、テュルク・モンゴル系の王族たちも競って都市の郊外に大規模なバーグを多数建設したちうわけや。これらペルシア文化の伝統は、イスラムの支配に下った後も長く保持され続けたさかいあるんや。なおペルシア語で「天国、楽園」を意味するフィルダウスとはパイリダエーザの近世ペルシア語形であるんや。
イスラムの庭園で最も重要な要素は水、植栽、パビリオンであるんや。さまざまな水源から引かれた水は、概して直線的な水路を通って長方形へんし正方形に区画された花壇に配分される。中央で直角に交叉して全体を4分割する[[イラン]]のチャハール・バーグ({{lang|ar|چهارباغ}}、[[:en:Chahar Bagh]])がその典型であるんや。水景施設としては噴泉、方形の人工池(ハウド)やらなんやらが設けられはる。イスラムの庭園は起伏の少へん平面的な構成をとるもんが多いが、傾斜地では階段状に庭園が設けられ、落差を利用した滝が造られはることもあるんや。
植栽としては伝統的に果樹園に類するもんがようけ、[[オレンジ]]、[[ザクロ]]、[[イチジク]]をはじめ、[[ピスタチオ]]、[[クルミ]]、[[アーモンド]]やらなんやらの堅果類も好まれたちうわけや。地域によって乾燥に強い[[ギョリュウ|タマリスク]]、[[サンザシ]]やらなんやらが選ばれるほか、[[マツ]]、[[スギ]]、[[ナツメヤシ]]、[[プラタナス]]、[[ポプラ]]、[[ヤナギ]]、[[クワ]]、[[テンニンカ]]やらなんやらの常緑樹、落葉樹が植えられはったちうわけや。草花は[[ジャスミン]]、[[バラ]]、[[ケシ]]、イチハツ、[[ラベンダー]]やらなんやら多種多様であるんや。宮殿を含めたイスラム世界の住宅建築において、外界から隔離された憩いの場である中庭は伝統的に建物と不可分の関係にあるんや。庭園のもう1つのタイプ、すなわち郊外に造られはることの多い公園のような規模の大きい庭園にもじぇったいパビリオンが建てられておる。建築的にはなんら統一的な形式もスタイルもなく、各地の伝統がそれぞれ生かされておる。一般に庭園の周囲には高い塀が巡らされる。そら、吹きつける砂塵や草木を食い荒らす家畜の侵入を防ぎ、街の喧騒を遮断する機能をもっておる。もちろんイスラムよりどエライ昔のペルシアのパイリダエーザの伝統とも無関係とはいえへん。以上の一般的な庭園に加えて、[[アーグラ]]の[[タージ・マハル]]に代表される、王族や聖人の墓妓を中心にした特殊な庭園が[[トルコ]]や[[イラン]]やらなんやらで造られはったちうわけや。
イスラム世界における庭園の歴史は、各地に残る考古学的資料や文献によって[[8世紀]]前半にまで遡ることができる。おもな庭園跡としては、[[サーマッラー]]の[[カリフ]]の宮殿・邸宅ジャウサク・アルハーカーニーの庭園跡、[[コルドバ]]近郊の夏の宮殿メディーナ・アサハーラの庭園跡、[[セビリア]]の[[アルカーサル]]のカスル・アルムバーラクの庭園跡、[[グラナダ]]の[[アルハンブラ宮殿]]の[[ミルテ]]の[[パティオ]]、夏の離宮[[ヘネラリーフェ]]の庭園やらなんやらがおもな例であるんや。一方、[[アケメネス朝]]以来の造園芸術の伝統がある[[イラン]]では、[[エスファハーン|イスファハーン]]のチェヘル・ストゥーン宮殿の庭園、アシュラフのチェヘル・ストゥーン、[[テヘラン]]のゴレスターン宮殿の庭園、[[シーラーズ]]のバーグ・エ・タフト、バーグ・エ・アヤマチム、[[カーシャーン]]のバーグ・エ・フィンやらなんやらを挙げることができる。
== 西洋の庭園 ==
=== 古代エジプト、西アジア ===
[[古代エジプト]]、[[西アジア]]の庭園のようすがねちっこく知れるような遺構は残存しておらへんが、文献、壁画やらなんやらからある程度まで推察をするっちうことは可能であるんや。たとうたら古代エジプトにおいては、[[紀元前14世紀]]、[[第18王朝]]の上流階級の住宅のようすを描いた壁画から、整然と区画され矩形の池を配した庭の存在が知られ、園亭、[[パーゴラ]]やらなんやらの施設が造られとったこともわかる。また聖域の聖性を高めるための植樹が行われたんは、西アジアにおいても同様やったちうわけや。
古代西アジアの庭園も古くさかいの歴史をもつが、なかでも[[新バビロニア]]時代の[[バビロンの空中庭園]]が[[世界の七不思議]]として古来喧伝されてきたちうわけや。こら宮殿の屋上、せやへんかったらそれに相当する高みに造られはったテラス式の庭園思われ、ワイが思うにはその規模と、[[ユーフラテス川]]を水源とした揚水技術が驚異の的となりよったさかいありまひょ。
具体的な遺構を欠くために、推測の域を出へんもんの、この地域がヨーロッパにおける庭園のイメージの源泉を形作ったことは間違いのへん。古代オリエント神話における、聖なる泉を中心とする楽園の描写は、[[旧約聖書]]の記述を通じて中世ヨーロッパの人々の庭園観に少なからぬ影響を与えたちうわけや。また[[ルネサンス期]]の庭園には、それを具体的な形に移した、噴泉を中心に水路が方形の花園を四分するイスラム庭園の基本構成の投影がみられはる。また[[古代ローマ]]および[[イタリア]]・[[ルネサンス]]の庭園における揚水技術の展開も、東方にその淵源をもつと考えられはる。
=== 古代ギリシア・ローマ ===
[[古代ギリシア]]においても、聖域、競技場や劇場やらなんやらの公共施設、個人の大邸宅に林苑や庭園が造られとったことが、当時の資料によって知られはる。せやけどながら、ルネサンス以降のヨーロッパ庭園の展開に影響を与えたゆう点では、古代ローマの住宅やヴィラにオマケした庭園が重要であるんや。とりわけ[[ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス|小プリニウス]]がその友人に宛てた書簡のなかに記しておる彼の2つのヴィラ(トスカナ荘とラウレンティア荘)の列柱廊や園亭に飾られはった庭の描写と、ローマ近郊の[[ティボリ]]に造られはった[[ハドリアヌス]]帝の広大なヴィラは、ルネサンスの庭園を計画した人々の重要なインスピレーションの源となりよったちうわけや。古代ローマの住宅は、軸線上に配置された[[アトリウム]]とペリステュルムの2つを諸室が囲む形を基本とし、さらにその奥に蔬菜園やらなんやらが配される形を基本としたが、じぇったいしもそれのみにとらわれぬ多様な庭が造られとったことは、[[ポンペイ]]や[[エルコラーノ]]、[[オスティア]]やらなんやらの遺跡に明らかであるんや。噴泉は好んで多用されたが、それとともに刈込み(トピアリア)がさかんに行われ、幾何学的な構成の生垣のほかに、文字や動物をかたどったもんまでが造られはったちうわけや。また室内に壁画として庭のすがたを描くことも行われており、ローマ国立美術館に保存されておる皇妃[[リウィア]]のヴィラの壁画はその好例であちう、果樹が豊かに実を結び、噴泉が高く水を吹き上げる当時の庭園のようすをしのぶことのできる貴重な資料であるんや。
=== 中世の囲い込まれた庭 ===
中世は庭園芸術の低迷期であるとする説があるが、こらじぇったいしも当を得へん見方やりまひょ。たしかにはなばなしい展開こそみられへんもんの、庭は中世上流階級の人々の生活にとって欠くべからざる存在やったさかいであるんや。ギヨーム・ド・ロリス([[:fr:Guillaume de Lorris]])およびジュリアン・ド・マレ([[:fr:Jean de Meung]])による『[[薔薇物語]]』の挿絵に見られはるような、垣をめぐらし装飾的な噴水を中心として構成された庭が、ワイが思うには一般の邸館にオマケする庭園のありようやった思われ、そこには珍しい植物、鳥禽が集められはったさかいあったちうわけや。[[十字軍]]の遠征がけぇへんな傾向にさらに拍車をかけたんはいうまでもなく、とりわけ東方の花や木が珍重されたちうわけや。当時の庭は、のちのルネサンス庭園のような変身に富んや空間構成よりは、いかいなる植物を集めるかに重点が置かれとったように思われる。またけぇへんな中世の庭のようすは、「鎖されし園」を意味する「ホルトゥス・コンクルスス」と呼びやったらわされる、楽園に座す[[聖母マリア]]を描いた宗教画やらなんやらにもうかがうことができる。回廊が方形の庭を囲い込む[[修道院]]の中庭形式も、この時代に完成したもさかい、こら中央に噴泉や雨ちゃん水溜、井戸(せやへんかったら宇宙軸、生命の樹の観念にもつながる象徴的な樹木)を配して、天上の楽園の観念的な表現ともなるもんやったちうわけや。
=== イタリア・ルネサンス ===
文化の他のジャンルと同じく、庭園においても新しい動きがいちはよ現れるんは[[イタリア]]においてであるんや。せやけどながら、[[15世紀]]頃の初期ルネサンスの庭園は、中世以来の伝統的な形式からの過渡期的な様相がつよ、まるっきし新しいルネサンス独自の様式が展開するんは、[[16世紀]]に入ってからのことであるんや。
イタリア・ルネサンスにおいて庭園芸術がめざましい発展をとげるんは、上流階級の人々が好んで営んや[[別荘|ヴィラ]]と、ほんでくりひろげられはる生活のやからやったちうわけや。都市の周縁部、せやへんかったら郊外に造られはったヴィラは、別荘ちうよりはひとつの知的サロンちうにふさわしく、たとうたら[[メディチ家]]の[[コジモ・デ・メディチ|コジモ]]や[[ロレンツォ・デ・メディチ|大ロレンツォ]]たちが[[フィレンツェ]]の郊外に建てたヴィラ群は、当代最高の詩や音楽、芝居やらなんやらに彩られはった芸文の花開く場やったちうわけや。これらはようけ丘陵地帯を選んで営まれたが、その庭園は中世の庭の求心的で閉ざされた構成を脱して、大きな展望に向かって開いた構造をもつにいたっておる。
たとうたら[[トスカーナ州|トスカナ]]・フィレンツェ北方のフィエゾレの丘に築造されたヴィラでは、斜面に複数のテラスが配され、[[トスカーナ州|トスカナ]]の田園の広々とした眺望が得られておる。
せやけど、のちの[[16世紀]]の庭園のように、テラス相互間を軸線([[ビスタ]])やへんで統一するといった[[イタリア式庭園]]の手法はまだ行われておらへん。このほか、フィレンツェ北西方の[[カレッジ]]のヴィラも、よう当時の庭の面影を伝えておる。
[[15世紀]]末から[[16世紀]]初頭にかけて、すなわち盛期ルネサンスの頂点に、文化の中心がフィレンツェから[[ローマ]]へと移ってきたときに、以後の庭園の構成に大きな影響を与える2つの庭が造られはったちうわけや。
1つは大建築家[[ドナト・ブラマンテ|ブラマンテ]]が設計した[[バチカン宮殿|バチカン宮殿のベルベデーレ]]([[:en:Cortile del Belvedere]])の中庭で、ここでは細長い敷地に軸線を通して奥行き方向に3段のテラスが築かれ、壮大な階段が空間のアクセントになちう、最奥部は巨大なニッチに終わっとったちうわけや。
また建築家でもあった[[ラファエロ・サンティ|ラファエロ]]がジュリオ・デ・メディチ(のちの教皇クレメンス7世)のために造ったヴィラ・マダマ([[:it:Villa Madama]])は、ハドリアヌス帝のヴィラに範をとったもんやけど、ブラマンテの例と同様な造りのほかに、[[イタリア式庭園|グロッタ]]を主題として大々的に採用したことと水を活用したことが際かとったちうわけや。
これらの特徴は、[[16世紀]]を通じてイタリアのルネサンス庭園の重要な特色となりよったちうわけや。
[[16世紀]]に完成されたこのイタリア様式の庭園として、今日残存するもっともっともっともすばらしい例は、ローマ近郊の[[ティボリ]]にイッポリト・デステ([[:it:Ippolito II d'Este]])の営んや[[ティヴォリのエステ家別荘|ヴィラ・デステ]]、およびローマ北方のバニャイア([[:it:Jacopo Barozzi da Vignola]])のヴィラ・ランテであるんや。
ともに傾斜地に営まれたもんやけど、前者は大がかりな水の使用に特色があり、後者は[[16世紀]]イタリア庭園に特徴的なジャルディーニ(幾何学的な庭園)と[[イタリア式庭園|ボスケ]](叢林)の組合せの典型やったちうわけや。さらにこれらの庭園が、邸館の内部同様、[[ギリシア神話]]や[[ローマ神話]]の神々の像やさまざまな寓意像によって彩られとったちうわけや。庭園は、メタファーとシンボルの体系として組み上げられておったさかいあるんや。
=== [[フランス式庭園]]の成立 ===
{{Main|平面幾何学式庭園}}
[[イタリア式庭園]]はヨーロッパ各国に大きな刺激を与え、そのボキャブラリーが[[アルプス山脈|アルプス]]の北方へと輸出されたが、やがてそのなかから[[フランス]]に新しい様式[[フランス式庭園]]への動きがあらわれ始める。まず宮廷造園家の家系に生まれた[[モレ]]が、[[16世紀]]後半に刺斥文様を生垣に写しとったような刺斥花壇を開発し、さらに[[17世紀]]にいたって[[アンドレ・ル・ノートル|ル・ノートル]]が、[[ブルボン朝]]の栄華にふさわしい壮大な様式を完成させたちうわけや。ル・ノートルはボスケ(叢林)で庭園の主部を限りとり、そこに刺斥花壇、大噴泉やらなんやらを整然と配して無限へと延びる見通し線を造りだしたちうわけや。とくにこのために彼が活用したんは、カナール(水路)であるんや。ル・ノートルの出世作は、[[ジュール・マザラン|マザラン]]のもとで大蔵縁をつとめた[[ニコラ・フーケ|フーケ]]の城館、[[ヴォー=ル=ヴィコント城|ヴォー=ル=ヴィコント]]の庭園で、そら南北1.2キロメートル、東西0.6キロメートルの広さをもっともっともっとったちうわけや。この庭がルイ14世の目にとまり、ル・ノートルは有名な[[ヴェルサイユ宮殿]]の庭をデザインするっちうことになる。ル・ノートルの関与した作品は、[[パリ]]周辺にたくはん残っており、シャンティイ、[[ソー公園]]、サン・クルーやらなんやらがおもなもんであるんや。
=== [[イギリス式庭園]]の流行 ===
{{Main|風景式庭園}}
フランス式庭園もたちまちヨーロッパ各国の模倣するトコとなりよったが、[[18世紀]]に入ると、[[イギリス]]にこれとまるっきし対照的な新しい庭園思潮があらわれ、場合によっては既存の名園までもがこれに造りかえられていく。この新しい庭は一般に「[[風景式庭園]]」と総称されるが、イタリアとフランスの庭がそれぞれの地形的特性をよう生かしたもんやったように、そらイギリスのゆるやかいな起伏をもつ丘陵の牧歌的な風景思想をその基盤においたもんとなりよったちうわけや。
[[イギリス]]では[[18世紀]]になちう、[[17世紀]]に普及した[[平面幾何学式庭園]]に反発し、[[イタリア]]の[[ピクチャレスク]]、[[風景]][[画家]]やらなんやらの影響も受けつつ生みだされたこの庭園様式はその後またたくまに[[フランス]]や[[ドイツ]]やらなんやら全[[ヨーロッパ]]と、ほんで[[アメリカ合衆国]]へと持ち込まれていったちうわけや。初期は景観美のみを追求し建物の周辺には人工的な[[花壇]]や[[テラス]]が作られはるようになる。
宮廷庭師やった[[チャールズ・ブリッジマン]]は庭を細かく区画する事を嫌い、大きく意匠するっちうことに努めたちうわけや。彼の作庭した[[ストウ]]は庭園に外部と生垣やらなんやらの境界を作らへんし、ハハァと呼ばれる[[掘割]]を使用して外部の空間と庭園とを接続させたちうわけや。ブリッジマンのあと、[[ウィリアム・ケント]]が庭園における眺望を一幅の絵としてとらえる新しい傾向があらわれ、手本として[[17世紀]]のフランスの画家[[クロード・ロラン]]や[[ニコラ・プッサン]]の描いたような古典的な神殿や廃墟の見えるローマ郊外の風景やったちうわけや。
こへんな風な傾向に対して、ただ水と芝、樹木と起伏のみによる構成を主張したんが「ケーパビリティ・ブラウン」の渾名をもつ[[ランスロット・ブラウン]]やったちうわけや。
[[ハンフリー・レプトン]]([[:en:Humphry Repton]])は、このブラウンの考えを受け継ぎ、「ランドスケープ・ガーデニング」ちう能書きを提唱、イギリスにおける、庭園[[デザイン]]の伝統の礎を固めていったちうわけや。この風景式庭園の思想の影響をもっともっともっともつよ被ったんはフランスなんやし、[[ジャン=ジャック・ルソー]]が晩年に隠棲したジラルダン([[:fr:Saint-Marc Girardin]])縁のエルムノンビル([[:fr:Ermenonville]])の館の庭や、[[マリー・アントワネット]]が[[ヴェルサイユ]]に営んや[[小トリアノン宮殿]]・プティ・トリアノンのアモーやらなんやら、さまざまな例が残されておる。
=== ドイツの庭園 ===
ドイツ文化圏は庭園の歴史においてはとくに独自の様式をつくりあげることなく、つねに各国の様式を採り入れて発展させてきたちうわけや。イタリア式を採り入れたもんとしては巨大な[[カスケード]]を配した[[カッセル]]のウィルヘルムスヘーエ([[:de:Bergpark Wilhelmshöhe]])の庭園、フランス式を採用したもんとしては[[ウィーン]]の[[シェーンブルン宮殿]]、風景式庭園の例としては[[ミュンヘン]]近郊のニンフェンブルク宮殿の改造部分やらなんやらが挙げられまひょ。ただドイツ文化圏の特色として、単に時々に流行の形式を追うゆうよりは、さまざまなタイプを等距離において、形式を自由に選び取っておる面もなくはへん。また北方の[[ロマンティシズム]]の色づけが、ドイツ文化圏の庭園に独特の幻想的な世界を築きあげておることも用心すべきであるんや。
=== 都市公園の形成と20世紀の庭園 ===
イタリアのルネサンス期には上流階級の庭園は公開が原則となっとったが、アルプスの北方ではこの習慣はなかいなか広まらへんかったちうわけや。せやけど[[18世紀]]になると、大都市においては上流階級の狩猟園の公開がしだいに行われ、[[19世紀]]の後半になると、公共の公園が庭園の新しいテーマとして登場する。各都市は競って公園を造り緑地を確保したが、そのデザインの基調となりよったんは、イギリスで発達した風景式庭園の思想やったちうわけや。この種の公園として最大のもんは、人口が増加しつづける[[ニューヨーク]]市が創設した面積850エーカーに及ぶ[[セントラル・パーク]]の計画なんやし、その設計には[[フレデリック・ロー・オルムステッド]]があたったちうわけや。こら人口の密集するニューヨークにあちう、今日もなお貴重な財産となっておる。またこれを契機にオルムステッドは自らの職能を[[ランドスケープ]][[アーキテクト]]と名乗る。
この影響下で、アメリカ各地では庭園作成手法は都市的なもん個人的なもんを問わへんし、大都市圏の公園設計に主として用いられはる風景式庭園を基調とする造り方と、所領の庭園復元や主にアメリカで各地に建設される[[ボザール様式]](アメリカンボザール)の住宅や大学キャンパスやらなんやらの大規模な建物や建物群を有する敷地に適応させる整形式庭園とを使い分ける手法、さらにそれらを混在させて造る手法が1929年の大恐慌まで展開される。この種の庭園設計の手引書として1917年にはヘンリー・ハバードとテオドラ・キンブルによる『An Introduction to the Study of Landsxape Disign』が出版される。アメリカの富裕層は郊外に広々とした土地を求め大邸宅とそれに応じた庭園を求めたちうわけや。
フランク・スコットは1870年出版の著書でアメリカの郊外住宅における理想的な庭園について述べておるが、こら住宅群各棟が芝生の前庭を設けて隣接して続いていく状態を造りだし維持するっちうことで道行く人に道路沿いに広がる緑の広がりを鑑賞させるちうもさかい、今日でもアメリカ各地で見られはる景観を示しておる。当然個人庭園は住宅の背後に造られはるが、けぇへんな「戸外の室」アウトドアリビングとしての庭のデザインが成立していく。
19世紀末から20世紀初頭に登場する近代建築運動の登場にともなちう、新たな庭園デザインが生まれてきたちうわけや。ドイツではエルヴィン・バルトがいっぺん代に流行したユーゲントシュティール([[アール・ヌーボー]])式の庭園を次々と手がける。また建築家[[ヘルマン・ムテジウス]]が建築と庭園の融合を主張し、1906年の自邸においては庭園を1室内のように整形式に区画区分し、パーゴラで建物との連続性を持たせるといった試みがなされる。著作でも1894年にチャールズ・プラットがイタリア式庭園についての書籍を著し、この中でイタリア式の屋外と屋内との統合、建築と敷地との関係を評価しておる。またフリッツ・エンケも1923年に著書で建築と庭園との関係を新たな視点で述べておる。一方、アメリカのジャンス・ジャンセンは豊富な植物知識を武器にプレーリースタイルと呼ばれる庭園デザインに取り組んでいったちうわけや。
アメリカでは中産階級のための、狭い敷地に建つ住宅マーケットが勃興してて、特に1929年の世界恐慌と後のニューディール政策の過程でそれまでの壮麗なネオクラシシズムへんしボザール様式を誇る大規模邸宅は市場に姿を消していったちうわけや。デザイナーによってアウトドアリビングとしての庭との格闘は1920年代中ごろから1920年代後半にかけて西海岸地区を拠点に活躍する建築家、庭園デザイナーにとって取り組まれていく。かの地では建築家のルドルフ・シンドラーとリチャード・ノイトラらによって建築と屋外空間の接触効果を最大限にもたらすデザイン的試みがなされ、パサティエンポ・ガーデンやらなんやら旧来式の庭園を設計しとった[[トーマス・チャーチ]]は1930年代後半から、Art and Arctecture誌のケーススタディー・ハウス数点を手がけ、プールが設けられ舗装される狭い敷地と西海岸特有の斜面立地条件、アウトドアリビングちう観点からの庭づくりに取り組み、ダーネル(ドネル)・ガーデン、カーカムズ邸、マーチン邸、フィリップ邸、メイル邸、ビーチハウス・ガーデン等次々と代表作を生み出し、デザインを洗練させ独自のスタイルを確立するにいたる。
1925年開催の、のちに[[アールデコ]]博覧会と呼ばれるパリ万国博は、フランスのみやったらず世界の庭園史にとっても貴重な実例を示すもんとなる。博覧会の作品はどれも小規模ながら、いっぺん代の視覚芸術や実用芸術から得た理念の発露を試みておる。作品はさまざまな素材で作成された彫刻、レリーフである意味見るもんの意表をつくもんやったちうわけや。これらの小庭園は庭園の考え方を根本的に見直す時代が到来するっちうことを示唆するもんとなりよったちうわけや。もちろんロベール・マレ=ステファンとジャン&ジョエルマルテルが建造したコンクリートの木や、アルベル・ラプラードの鳥の庭に設けられはった鳥かごやらなんやら、奇抜な印象なもんが少なからずあるんや。せやけど一方でガブリエル・グーヴレキアンの水と光の庭のようにデザイン的にどエライ際立ったもんもあったちうわけや。会場の中央遊歩道に接する三角形の敷地に押し込まれたその庭は、敷地の三角形が主要なモチーフとなっておる。その過激な外観と厳密なデザインに単なる幾何学の実験にはとどまらへん形態的な転換を示しとったちうわけや。その後グーヴレキアンの左翼右翼対称性と地表パターンの強調といったデザインの特徴は当時の庭園で流行したちうわけや。翌年1926年には[[ドイツ]]・[[ドレスデン]]で開催された庭園博覧会にグスタフ・アリンガーが「未来の庭園」と題した、当時の表現主義の影響を受けた庭園を出展する。
またいっぺん期にフランスで書籍の装丁や内装デザイン方面で活躍しとったデザイナーのピエール=エミール・ルグランが[[キュビズム]]やらなんやらの影響を受けた構成、幾何学パターンを多用したタジャール邸庭園を世に送り出す。のちに鮮やかいな青のカスケード階段やバラの芝庭を備えたモダンな庭園、ノームキーグや華麗な曲線を描くエルウォンガー邸庭園を生み出すフレッチャー・スティールは、けぇへんなフランスの新しい庭園事例をアメリカの季刊雑誌で紹介し、それらの作品がアメリカの若手デザイナーを刺激する。フランスの新しい庭園デザインの新時代の到来を提示したこの論説は強烈な印象を与えたようやったちうわけや。
またいっぺんに[[モダニズム]]勃興期でもあったちうわけや。[[ミース・ファン・デル・ローエ]]がバルセロナパビリオンを、また[[ワルター・グロピウス]]が[[ハーバード大学]]へ赴任し、1932年には[[MOMA]]で「インターナショナルスタイル:1922以降の建築展」、1937年には「現代ランドスケープとその源泉展」とパリ国際博覧会で造園家による第一回国際会議が開かれておる。
この結果、従来の二元論的な庭園作成手法は異議が唱えられ、主として若い世代の[[造園家]]/ランドスケープアーキテクトを中心として改革運動がアメリカで起こったちうわけや。彼らは自然風景式と整形式とに分類し選択するといったことを求めへんし、[[モダニズム]]の美学、近代建築の有する秩序体系に合致しそこから発露される庭園デザインを求めたさかいあるんや。
1935年バークレーを卒業した[[ガレット・エクボ]]はハーバードに移り1937年にPencilPoint誌9月号に都市住宅の小庭園数十件のプロトタイプを掲載、同じく『Freedam in the garden』や植物植栽計画についての論考を掲載しとったジェームズ・ローズや[[ダン・カイリー]]たちと共にアーキテクチュアルレコード誌やらなんやらで記事の共同執筆連載を開始する。1939年にはジョージ・デリストンが『Gardens and Gardening』を出版し、ハーバード建築学科にはイギリスでベントレー・ウッド(C・カイメイエフ自邸)のランドスケープや自邸セント・アンズ・ヒルやらなんやらを生み出しとった[[クリストファー・タナード]]が著作『Garden in the ModernLandscape(近代[[ランドスケープ]]の[[庭]])』を引っさげてやってきて、エクボらと新しい庭園デザインの運動を展開していく。運動がやがてサンフランシスコ近代美術館で「ランドスケープ・デザイン展」が開かれ、エクボは数々の作品と著作『Landscape for living』、さらに自邸ではアルコア社が開発したアルミを使用した庭園を、SOMと[[彫刻家]][[イサム・ノグチ]]らはコネチカット・ジェネラル生命保険会社中庭やパリ・[[ユネスコ]]の庭園、カイリーは1955年グリッドリーの傑作ミラー邸を生み出していく。
けぇへんな展開がさらにいっぺん期、[[グンナール・アスプルンド]]とジガード・レヴェレンツの「[[スコーグスシュルコゴーデン]](森の火葬場 The Woodland Cemetary)」ジェフリージェリコーのホープセメント工場の跡地利用全体計画、カイリーと[[エーロ・サーリネン]]らの[[ジェファーソンメモリアル]]、フィリップ・ジョンソンのロックフェラー・ガーデン、サーリネンとチャーチの[[ゼネラルモーターズ]]技術センター、ジェフリー・ジェリコーのギネスヒル高速道建設に伴う残土の芸術的利用計画、テオドラ・オルムンドソンとステイリーのオークランド、カイザーセンターの屋上庭園、タナードの教え子[[ローレンス・ハルプリン]]や[[チャールズ・ムーア]]らの「シーランチ」、エクボが専門家として参加したナイヤガラの滝修復計画やらなんやら、今日では現代の広汎な要求に応えて、庭園の枠を超えて環境全体のデザイン([[環境デザイン]])を手がける専門家の誕生をみており、都市内に建築その他と一体となって造られはる公園や大規模な住宅地計画やらなんやらに活躍しておる。
== やまとの庭園 ==
{{Main|やまと庭園}}
[[画像:SF_Japanese_Garden.JPG|thumb|right|250px|アチラのやまと庭園]]
「庭園」とは、集会、交流、留置やらなんやらを目的とした庭やのうて、観賞、活動、思索やらなんやらを目的とした庭、また一部には、特定の世界観や宗教観を投影したもんもあるんや。庭園は自然にできることはなく、他の形、石の配置、樹木の選択と組合せ、通路の作り方、建物の見せかたやらなんやら、ずぅぇえええぇぇええんぶ計画しデザインされておる。
「庭園」ちう言葉は新しく、もともと「[[庭]]」と「[[園]]」は別の意味であるんや。「庭」は実業の場所、平坦な土地を指してて、囲われておるの意味はへん。植物の有無の区分はなく、古代では神事や政事の場所や屋前広場や、屋内の作業場、家まわりの空地やらなんやらが、屋敷の敷地、ちう意味で「庭」の意味が通用しておる。『古事記』や仲哀記には神の託宣を聞く清められはった空間を[[沙庭]]と呼び、神功紀には「為審神者」とあって神託を聞く審神者と呼んでおる記事がみられはる。サニハは「神に供する神聖な稲を積み重ねる場」、と理解され、「神にささげる稲を育てんねん神聖で触れてはやったらへん[[田]]」と注釈されるユニハ(齋庭)とともに稲にかかわる神聖な空間として認識されておることがわかる。「園」は『[[やまと書紀]]』の孝徳天皇紀にある「園」では歴史家の解釈では今日の庭園の意味としてよりも、一定の管理下にある果樹やらなんやらを植えた空間とみられておるが、所有主の領域を示す「囲われた土地」ちう意味を、後に野菜や果樹、また草花を栽培しておる場所に含ませたちうわけや。
庭と園を合成した造語、「庭園」ちう語が発祥したんは[[明治]]以降で、[[19世紀]]末、明治20年代から30年代にかけて定着をみる。室町時代の記録では、足利義政の同朋衆である善阿弥は泉石の妙手と記されておるほか、義政が相国寺塔頭内の蔭涼軒を訪れたとき『蔭涼軒日録』では、泉水御遊覧としておることから、泉石や泉水が池や滝、石組を持つ庭園の全体を示す表現に使われておるようであるんや。16世紀末頃に来日宣教師たちが作った日葡辞書では、庭園を表す表現として庭(NIWA)と園(SONO)、前栽(Xenzai)が掲載され、パテオと訳されておる。江戸時代には京都の庭園案内書は『[[都林泉名勝図会]]』のように林泉ちう表現が現れておる。庭園の語は造園対象からは対象や場所の意味から、空間の意味で表されておる。つくる目的や方法は、時代や民族、宗教やらなんやらによって異なり、さまざまな様式を生み出したちうわけや。せやけど、いずれも人々が理想とする環境を映し出そうとする点では共通しておる。楽園、浄土、パラダイスやらなんやらの現世的空間が庭園やからあるんや。また庭や園ちう言葉も個別に意味を持つ単語として使用されておる。
庭園は、作られはったときにはわて的なもんがほとんどやけど、近代になってようけが、市民が楽しめる公園的な扱いをされるようになっていったちうわけや。従来、造園の対象とした庭園の場合はほとんど個人が生活する邸宅住居か寺院やらなんやらが所有する庭園にすぎへんかったんやけど、今では、会社ビル、官庁、事務所、病院、学校、共同住宅、ホテル、公共の施設、建物の屋上やらなんやらで、さらに造園自体も緑地、緑道、広場、自然公園、国土の環境保全ちうように対象範囲がひろがっておる。
=== 飛鳥・奈良時代 ===
[[飛鳥時代]]には中国から伝わった[[須弥山]]・[[蓬莱山]]やらなんやら[[仏教]]・[[道教]]の世界観やらなんやらを表現した庭園が造られはったゆう。『やまと書紀』において推古20年(612年)には百済から路子工が来日し、須弥山、呉橋を造ったことや、推古天皇34年([[626年]])条の年に没した[[蘇我馬子]]の[[飛鳥川]]の畔にあった家の庭には、小池が掘られ、池には小島が築かれとった、ちう記録があるんや。「しま」は庭園を指す表現として使用された例があり、後に『[[伊勢物語]]』78段にも、仁明天皇の皇子人康親王の山科にある邸宅に、藤原常行が石を謙譲したろおもてして「島好み給君なり、この石を奉らん」といった話も伝えられておる。
庭園の記録は草壁皇子の庭園やらなんやらが『[[万葉集]]』の和歌に収められてて、歌に詠まれるような観照の庭なんやし、奈良時代の[[藤原京]]、[[平城京]]の庭園跡は、[[1960年代]]以降の発掘調査によりいくつか例が知られ、[[曲水の宴]]に使われた思われる水路の跡も見られはる。これらの記録からやまと独自の実際の景を模写する自然風景式庭園を形成してきたことが見受けられはる。
=== 平安・鎌倉時代 ===
[[9世紀]]に京都では地形を巧みに利用した作庭がみられ、[[御所]]の庭園に優れたもんがようけ造られていくが[[10世紀]]にはおると貴族らの居住空間である[[寝殿造]]の館に庭園が造られはったちうわけや。[[平安時代]]中期([[10世紀]])以後は貴族のわて寺が増え屋敷の中に御堂を建て、また仏寺が別荘としての機能も果たし[[11世紀]]から[[12世紀]]を通じて眼前に[[極楽浄土]]の世界をつくろうと[[浄土式庭園|浄土式]]とよばれる庭園形式が生じる。
[[画像:Anyoin02 1024.jpg|thumb|200px|<(太山寺 (神戸市)|太山寺)><(太山寺安養院庭園|安養院)>の枯池式枯山水]]
[[画像:NijojoGarden3317.jpg|thumb|200px|二条城]]
[[画像:Keiunkan02s3872.jpg|thumb|200px|慶雲館本庭]]
=== 室町・安土桃山時代 ===
国師[[夢窓疎石]]は禅の修業と庭造りを同一レベルにおき、水墨山水画と根底を等しくするような、小さい書院の前庭としての狭い空間に、石組で山滝を表し、砂で川や海を象徴する自然山水を凝縮した[[枯山水]]の庭を作庭されていく。また[[15世紀]]後半から[[茶道]]・茶の湯が盛んになり[[茶室]]ちうジャンルが確立、茶室にオマケして茶庭/[[露地]]が設けられはったちうわけや。
=== 近世 ===
[[17世紀]]初め将軍せやへんかったら大名は、屋敷に庭園を築く。これらは[[大名庭園]]と呼ばれ、これらから池泉[[回遊式庭園]]が発展する。[[大名庭園]]の中から[[18世紀]]初期に造られはった現在の[[やまと三名園]]がうまれるほか、[[18世紀]]後半になると園芸の流行が庭園にも影響し、園内に草花が植えられその結果菖蒲園、[[百花園]]や百草園、花屋敷やらなんやら、庭園は入場料を徴収して公開見学させられ[[営業]]として成立させる。また水戸の[[偕楽園]]や[[白河市]]の[[南湖公園]]のように、大名庭園を[[庶民]]に開放し始める。
=== 明治から昭和へ ===
[[明治]]時代以降では、実業家・政治家やらなんやらの庭園に有名なもんがあるが、特に[[山縣有朋]]は庭園好きで知られ、京都の[[無鄰庵]]、東京の[[椿山荘]]やらなんやらを残しておる。庭師では植治こと七代目・[[小川治兵衛]]が活躍し、無鄰庵をはじめ[[円山公園]]、[[慶雲館]]本庭やらなんやら代表作は国の名勝に指定されておるもんが多い。
[[大正]]から[[昭和]]にかけては、自然の景趣を写そうとするもん、ほんで、「雑木の庭」が登場する。また古庭園の研究が行われ、[[重森三玲]]やらなんやらが新しい庭園を模索したちうわけや。
[[第二次世界大戦]]後、建築が近代化・大規模化するにともへん[[やまと庭園]]も発展していったちうわけや。[[足立美術館]]庭園に代表される[[中根金作]]の一連の作品群やらなんやらがほんであるんや。
== 形式 ==
*[[やまと庭園]]
**[[寝殿造|寝殿造系庭園]]
**[[浄土式庭園|浄土庭園]]
**[[書院造|書院造庭園]]
**[[枯山水|枯山水式庭園]]
**[[露地]]
**[[回遊式庭園]]([[大名庭園]])
*中国庭園
*[[西洋式庭園]]
**サラセン式庭園
**[[露壇式庭園]]
**[[平面幾何学式庭園]]
**[[風景式庭園]]
== やまとの名園 ==
*[[龍安寺]]方丈石庭
*[[大徳寺]][[大仙院]]庭園
*[[醍醐寺]][[三宝院]]庭園
*[[毛越寺]]庭園
*[[慈照寺]]庭園
*[[南禅寺]]塔頭金地院庭園
*[[偕楽園]]
*[[兼六園]]
*[[後楽園]]
*[[玄宮園]]
*[[桂離宮]]庭園
*[[小石川後楽園]]
*[[六義園]]
*[[栗林公園]]
*[[水前寺成趣園]]
*[[中津万象園]]
*[[仙巌園]](磯庭園)
*[[平安神宮|平安神宮神苑]]
*[[足立美術館]]庭園
他、著名なやまと庭園を参照
== 世界の名園 ==
*セントラル教会のクラウストルム(イタリア)
*[[アルハンブラ宮殿]](スペイン)
*[[タージ・マハル]](インド)
*ベルベデレ園(イタリア)
*エステ荘(イタリア)
*ボール・ビコント(フランス)
*[[ヴェルサイユ宮殿|ヴェルサイユ宮苑]](フランス)
*ストウ園(イギリス)
*[[セントラル・パーク]](アメリカ)
*リージェントパーク(イギリス)
*セント・ジェームズ・パーク(イギリス)
== 関連項目 ==
{{Commons|Garden}}
*
*[[園芸]]
*[[中庭]]
*[[庭師]]-[[造園]]-[[ランドスケープ]]
*[[大名庭園]]
*[[アジアの庭園]]
*[[イタリア式庭園]]
*[[フランス式庭園]]
*[[イギリス式庭園]]
{{美術}}
{{DEFAULTSORT:ていえん}}
[[Category:庭園|*]]
[[Category:寺院建築]]
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[[zh:花園]]
[[zh-yue:花園]]
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