源頼朝 |
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▼ 源頼朝 の解説を表示▼源二位、右翼大将軍、右翼幕下}} {{武士/神号|白旗大明神}} {{武士/戒名|武皇嘯厚大禅門}} {{武士/墓所|[[神奈川県]][[鎌倉市]]大盛山巨腹}} {{武士/官位|[[従五位|従五位下]][[兵衛府|右翼兵衛権佐]]、[[正四位|正四位下]]、 [[従二位]]、[[正二位]]、[[大納言|権大納言]]、 [[近衛府|右翼近衛大将]]、[[征夷大将軍]]}} {{武士/幕府|[[鎌倉幕府]] [[征夷大将軍]] 在任:[[建久]]3年 - [[建久]]5年([[1192年]] - [[1194年]])}} {{武士/氏族|[[清和源氏]][[源義朝|義朝]]流([[河内源氏]])}} {{武士/父母|[[源義朝]]、[[藤原季範]]の娘([[由良御前]])}} {{武士/兄弟|[[源義平|義平]]、[[源朝長|朝長]]、'''頼朝'''、[[源義門|義門]]、[[源希義|希義]]、[[源範頼|範頼]] [[阿野全成|全成]]、[[義円]]、[[源義経|義経]]、坊門姫、女子}} {{武士/妻|[[八重姫]]、'''[[北条政子]]'''、[[亀の前]]、大進局}} {{武士/子|千鶴丸、大姫、'''[[源頼家|頼家]]'''、[[三幡|乙姫]]、[[貞暁]]、'''[[源実朝|実朝]]'''}} {{武士/終了}} '''源 頼朝'''(みなもと の よりとも)は、[[平安時代]]末期、[[鎌倉時代]]初期の[[武将]]であるんや。[[鎌倉幕府]]の初代[[征夷大将軍]]として知られはる。 [[平安時代]]末期に[[河内源氏]]の[[源義朝]]の三男として生まれ、父・義朝が[[平治の乱]]で敗れると[[伊豆国]]へ流される。伊豆で[[以仁王]]の令旨を受けると[[平氏]]打倒の兵を挙げ、[[関東地方|関東]]を平定し[[鎌倉]]を本拠とする。弟たちを[[代官]]として[[源義仲]]と[[平氏]]を滅ぼし、戦功のあった末弟・[[源義経]]を追放し、諸国に[[守護]]と[[地頭]]を配して力を強め、[[奥州合戦]]では[[奥州藤原氏]]を滅ぼす。[[建久]]3年([[1192年]])に[[征夷大将軍]]に任じられはったちうわけや。 これにより[[朝廷]]から半ば独立した政権が開かれたちうわけや。この政権は後に[[鎌倉幕府]]と呼ばれ、[[幕府]]やらなんやらによる[[武家政権]]は王政復古の大号令まで足掛け約680年間に渡り、存続するっちうこととなる。 == 生涯 == * 文中の月日はみな[[旧暦]] * [[改元]]の有った年は改元後の[[元号]]を記す * 内容の典拠については年表を参照。 === 出生 === [[画像:Yoritomo ubuyu.JPG|thumb|180px|誓願寺(名古屋市熱田区)門前にある頼朝生誕の地の石碑]] [[久安]]3年([[1147年]])4月8日、[[源義朝]]の三男として生まれる。[[幼名]]は'''鬼武者'''、または'''鬼武丸'''「鬼武丸」は『[[続群書類従]]』所収の「清和源氏系図」による。「鬼武者」は『[[系図纂要]]』による。系図纂要は尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともあるんや。。母は[[熱田神宮]]大宮司[[藤原季範]]の娘の[[由良御前]]。出生地は不明やけど、[[尾張国|尾張]]当時は里帰り出産が一般的やった事から、尾張での出産の可能性が考えられはる。出生地とされる熱田神宮西の誓願寺には「右翼大将頼朝公誕生舊地」と刻まれた石碑が立つ。もしくは[[京都|京]]由良御前は京都に住んどった事から、同地で頼朝を出産した可能性も考えられはる。と考えられておる。 父・義朝は[[清和天皇]]を祖とし、[[河内国]]を本拠地とした[[源頼信]]、[[源頼義]]、[[源義家]]らが[[東国]]に勢力を築いた[[河内源氏]]の[[棟梁]]であるんや。義朝は[[保元]]元年([[1156年]])の[[保元の乱]]で、[[平清盛]]と共に[[後白河天皇]]に従って勝利しとり、頼朝はその御曹司として官職を歴任し、保元3年([[1158年]])には[[後白河天皇]][[准母]]として皇后宮となりよった[[統子内親王]]に仕え皇后宮権少進、[[平治]]元年([[1159年]])に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院[[蔵人]]に補されたちうわけや。また、同年([[1159年]])1月には右翼近衛将監、6月には[[二条天皇]]の蔵人に補任されておる。 === 平治の乱 === {{Main|平治の乱}} 保元の乱の後、二条天皇[[親政]]派と後白河[[院政]]派の争い、急速に勢力を伸ばした[[藤原通憲|信西]]への反感やらなんやらがあり、都の政局は流動的やったちうわけや。頼朝の父・義朝は[[平治]]元年([[1159年]])12月9日、[[後白河天皇|後白河上皇]]の近臣である[[藤原信頼]]に誘われ、[[平治の乱]]を起こしたちうわけや。当初は信西を追討した官軍ちう立場に立ちその恩賞の[[除目]]で、13歳の頼朝は[[兵衛府|右翼兵衛権佐]]へ任ぜられはる。せやけど天皇は[[内裏]]から[[六波羅]]の平清盛邸へと逃れ、27日、官軍となりよった[[伊勢平氏|平家]]が[[大内裏]]へと攻め寄せる。頼朝は奮戦する長兄・[[源義平]]らに続いて戦うが、義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちたちうわけや。 [[画像:Yoritomo map1.png|left|近畿から東海地方の地図]] 義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中一行とはぐれ後に[[平頼盛]]の家人[[平宗清]]に捕らえられはる。なお頼朝がはぐれて後、父義朝は[[尾張国]]にて[[長田忠致]]に謀殺され、長兄義平は都に潜伏しとったトコ捕らえられて処刑され、次兄朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としておる頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りであるんや。/金比羅系本『[[平治物語]]』によると、一行は[[近江国]]へと至るが、頼朝は[[草津市|野路]]で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。いっぺんはこれを切り抜け[[野洲市|野州]]で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めるともっかいはぐれ、一月中は[[浅井町|浅井]]に身を潜める。その間に一行は、義朝の妻子が住む[[美濃国]][[大垣市|青墓]]へ至るが、ここで傷を負った次兄・[[源朝長]]を亡くし、父・義朝は[[尾張国]]野間で[[長田忠致]]の裏切りにより討たれる。それを知った長兄・[[源義平]]は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、よりどエライ昔の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ[[六条河原]]で首を斬られはったちうわけや。頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て[[尾張]]へと至るが捕えられはったちうわけや。/『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられはったとあるんや。/『[[吾妻鏡]]』は大夫属定康ちうもんが大吉寺やわて邸に匿ったとする。/古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられはったとあるんや。/なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。。[[永暦]]元年([[1160年]])2月9日、京・六波羅へ送られはった頼朝『清檞眼抄』の処罰は死刑が当然視されとったが、清盛の継母・[[池禅尼]]は、早世した我が子・[[平家盛]]に頼朝が似ておる事から清盛に助命を請うたことやらなんやらも影響しこの助命嘆願には後白河院、[[統子内親王|上西門院]]の意向が働いとったとの説もあるんや。(元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いなんやし、義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎへんし、乱における義朝の立場は従来考えられておるもんより実は影響力の弱い立場なんやし、従ってそのボウズ達の処分は軽度のもんやったんも当然であるんや、ちう見解も示されておる(野口実『源氏と坂東武士』)。、死一等を減ぜられて頼朝は3月11日に[[伊豆国]]の[[蛭ヶ小島]](ひるがこじま)[[摂津源氏]]の[[源仲綱]]が伊豆守を勤めとったとの説もあるんや。へと流されたちうわけや。なお、同日平治の乱に関った[[藤原経宗]]、[[藤原惟方]]や同母弟[[源希義|希義]]も流刑に処されておる。 === 伊豆の流人 === [[伊豆国]]での流人生活は史料としてはほとんど残っておらへん池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・[[牧の方]]の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物なんやし、清盛と不仲やった[[平頼盛]](池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もあるんや。(杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、[[上横手雅敬]]監修、思文閣出版、1994年)。 流人とはいえ、[[乳母]]の[[比企尼]]や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩りを楽しむやらなんやら比較的安定した自由な生活をしとった思われる。周辺には比企尼の婿である[[安達盛長]]が側近として仕え、[[源氏]]方に従ったため所領を失って放浪中の[[佐々木定綱]]ら四兄弟が従者として奉仕したちうわけや。この地方の霊山である[[箱根権現]]、[[走湯権現]]に深く帰依して読経をおこたらへんし、亡父[[源義朝|義朝]]や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っとったちうわけや。そへんな中でも乳母の甥・[[三善康信]]から定期的に京都の情報を得ておる『[[吾妻鏡]]』。なお、この流刑になっておる間に伊豆の[[豪族]][[北条時政]]の長女である[[北条政子|政子]]と婚姻関係を結び長女大姫をもうけておる。この婚姻の時期は大姫の生年から[[治承]]2年([[1178年]])頃のことであると推定されておる。 なお、フィクション性が高いとされる『[[曽我物語]]』には次のような記載があるんや。仁安2年([[1167年]])頃、21歳の頼朝は[[伊東祐親]]の下に在ったちうわけや。ここでは後に家人となる[[土肥実平]]、[[天野遠景]]、[[大庭景義]]やらなんやらが集まり狩や相撲が催されておる。せやけど祐親が在京の間にその三女[[八重姫]]と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げホら、八重姫を江間小四郎時政の次男・[[北条義時]]の通称と同名やけど別人であるんや。この時に義時は4歳ほど。の妻とし、頼朝を討たんと企てたちうわけや。祐親の次男[[伊東祐清]]からそれを聞いた頼朝は[[走湯権現]]に逃れて一命を取り留めたちうわけや。頼朝29歳頃の事件やったちうわけや。31歳の時、頼朝監視の任に当たっとった北条時政の長女である21歳の[[北条政子|政子]]と通じる。時政は[[山木兼隆]]に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となりよった政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年なんやし、長女大姫が1178年に誕生しておる事から物語上の創作思われる。。 === 挙兵 === {{Main|治承・寿永の乱}} [[画像:Yoritomo map2.png|left|伊豆地方の地図]] [[治承]]4年([[1180年]])、高倉宮[[以仁王]]が[[平氏]]追討を命ずる[[令旨]]を諸国の[[源氏]]に発し、4月27日、[[伊豆国]]の頼朝にも、叔父・[[源行家]]より令旨が届けられはる。以仁王は[[源頼政]]らと共に[[宇治市|宇治]]で敗死するが、頼朝は動かずちーとの間事態の成り行きを静観しとったちうわけや。せやけど平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知りオノレが危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけたこの挙兵決意には都の三善康信の知らせやの京より下った[[三浦義澄]]、[[東胤頼|千葉胤頼]]らの言葉があったとも言われておる(『吾妻鏡』)。。 挙兵の第一攻撃目標は伊豆国[[目代]]山木兼隆と定められ、[[治承]]4年([[1180年]])8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りであるんや。挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えとった[[工藤茂光]]、[[土肥実平]]、[[岡崎義実]]、[[天野遠景]]、[[佐々木盛綱]]、[[加藤景廉]]を一人ずつわて室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。皆に自身のみが抜群の信頼を得ておる思わせ奮起させたさかいあるんや。挙兵の前日、参着を命じとった佐々木盛綱ら兄弟が参じへんし、頼朝は兄弟に計画を漏らした事を頻りに後悔する。せやけど当日の8月17日昼、急ぎしんどい兄弟が到着すると、頼朝は感涙を浮かべてねぎらい、深夜に[[佐々木定綱]]、[[佐々木経高|経高]]、盛綱、[[佐々木高綱|高綱]]、加藤景廉を従え平兼隆を討ち、平家打倒の兵を挙げたちうわけや。。 伊豆を得た頼朝は[[相模国]]土肥郷へ向かう。従った者は[[北条義時]]、[[工藤茂光]]、土肥実平、[[土屋宗遠]]、[[岡崎義実]]、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、[[加藤景廉]]らなんやし、さらに[[三浦義澄]]、[[和田義盛]]らの三浦一族が頼朝に参じるべく[[三浦半島|三浦]]を発したちうわけや。せやけど三浦軍との合流前の23日に[[石橋山の戦い]]で、頼朝らは平家に仕える[[大庭景親]]、[[渋谷重国]]、[[熊谷直実]]、[[山内首藤経俊]]、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率おる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かいな従者と共に山中へ逃れた『吾妻鏡』には次のようなエピソードがあるんや。平家方は頼朝を捜し[[梶原景時]]は居所を知るが、景時は「ここに人跡は無い」と大庭景親に述べ他の峰に誘ったちうわけや。この間に頼朝は3歳より奉っとった観音像を岩窟に隠し、実平に対し「首を景親らに伝う日、この本尊を見て源氏の大将に非ざる由、じぇったい誹りを招くで」と述べたちうわけや。。数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、8月28日に[[真鶴町|真鶴岬]]から船で[[安房国]]へと向かう。 === 関東平定 === [[画像:鶴岡八幡宮本殿.jpg|thumb|230px|鶴岡八幡宮本殿]] [[治承]]4年([[1180年]])8月29日、[[安房国]]へ上陸した頼朝は、[[房総半島|房総]]に勢力を持つ[[上総広常]]と[[千葉常胤]]に参上を命じ、北条時政を[[甲斐源氏]]の[[武田信義]]に加勢させるべく送る。上総・千葉両氏の支持を受けた頼朝は房総半島を北上する『[[源平盛衰記]]』なお、『吾妻鏡』によると安房上陸後の頼朝軍の動向は次の通りになる。頼朝は最初は安房国住人安西景益の元に迎えられはる。その後、房総半島を北上する際、安房国の住人長狭常伴に襲撃されかかるが、合流した三浦義澄の働きで常伴を撃退する。その後千葉常胤の加勢を得ると、9月13日、平家に従う[[下総国]]目代を滅ぼし、その後よりどエライ昔から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官親政を討ち取る。17日には広常の参入を待たず三百余騎で[[下総国|下総]]国府に入り、常胤から[[源頼隆]]を引き合わされる。頼隆は[[平治の乱]]で共に戦い討たれた[[源義隆]]の遺児なんやし、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ[[御家人|家人]]としたちうわけや。19日、当初は日和見を決め込んどった上総広常が2万騎を率いて参じると、本来は喜ぶべき所を逆に広常の遅参を咎め、恭順させる。なお、この広常の日和見をしたことに関しては現在疑問を抱く学説が提示されておる(野口実『源氏と坂東武士』やらなんやら)。また、頼朝の房総北上の行動については、『吾妻鏡』以外の延慶本『平家物語』『源平闘諍録』『源平盛衰記』やらなんやらには細部にわたる異説があるんや。。10月初め、[[武蔵国]]に入ると[[葛西清重]]、[[足立遠元]]に加え、いっぺんは敵対した[[畠山重忠]]、[[河越重頼]]、[[江戸重長]]らも従える。10月6日、かつて父義朝と兄義平の住んや[[鎌倉]]へ入り、大倉の地に居宅となる[[大倉御所]]をかまえて鎌倉の政治の拠点としたちうわけや。また先祖の[[源頼義]]が京都郊外の[[石清水八幡宮]]を勧請した[[鶴岡八幡宮]]を北の山麓に移し、父義朝の菩提を弔うための[[勝長寿院]]の建立を行うやらなんやら整備を続け、鎌倉は後の[[鎌倉幕府]]の本拠地として、発展を遂げる事となる。 [[画像:Yoritomo map3.png|left|伊豆・関東地方の地図]] 10月16日、頼朝追討の[[宣旨]]を受けた[[平維盛]]率おる数万騎が[[駿河国]]へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に[[黄瀬川]]で武田信義、北条時政らが率おる2万騎と合流する。20日、[[富士川の戦い]]で維盛軍と対峙するが、撤退の最中に水鳥の飛び立つ音に浮き足立った維盛軍は潰走し、頼朝軍はほとんど戦わずして勝利を得たちうわけや。翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは[[常陸源氏]]の[[佐竹氏]]が未だ従わへんし、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえしたちうわけや。この日、[[奥州]]の[[藤原秀衡]]を頼っとった異母弟・[[源義経]]が参じておる。 帰途、相模国府で初めての勲功の賞を行い、捕えた大庭景親を誅すると、[[佐竹秀義]]を討つべくもっかい鎌倉を発し、11月4日に[[常陸国]]府へと至る。戦いは上総広常の活躍により秀義を逃亡させ終わった([[金砂城の戦い]])。頼朝は秀義の所領を勲功の賞に充て、鎌倉へ戻ると和田義盛を[[侍所]]の別当に補す。侍所は後の[[鎌倉幕府]]で[[軍事]]と[[警察]]を担う事となる。 [[画像:Enoshima_shrine_okutsumiya.jpg|thumb|230px|頼朝寄進江島神社奥津宮鳥居]] [[治承]]4年([[1180年]])末までには、九州筑紫地方、四国伊予の[[河野氏]]、[[近江源氏]]、甲斐源氏、[[信濃源氏]]らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる『[[玉葉]]』。平氏も都を[[福原京|福原]]から京都に都を移して反撃に転じ近江源氏や[[奈良|南都]]やらなんやらの畿内寺社勢力を鎮圧する。せやけど[[養和]]元年([[1181年]])に入ると、[[肥後国]]の[[菊池高直]]、[[尾張国]]の[[源行家]][[美濃源氏]]らも平氏打倒の兵を挙げ反平氏の活動はより一層活発化したちうわけや。その混乱のさなか閏2月4日、平清盛が熱病で世を去ったその遺言は「わが子孫、一人と雖も生き残りなば骸を頼朝の前さらすべし」やったともいう(『玉葉』)。。全国的な反乱が続く中、平家は兵を派遣して美濃源氏を鎮圧し、ついで清盛五男の[[平重衡]]は尾張以東の東国征伐に向かう。重衡は行家らを伊勢と尾張の国境[[墨俣川の戦い]]にて打ち破り尾張を制圧するが、それ以上は東に兵を進めず都に戻った『[[吉記]]』。 7月頃、頼朝は後白河法皇に「まるっきし謀叛の心無し。昔のごとく源平を共に召し仕うべきなり」との書状を送るが、清盛の後継者[[平宗盛|宗盛]]は清盛の遺言を理由にその和平提案を拒否した。その一方で奥州の藤原秀衡を[[陸奥守]]に任じ、秀衡に頼朝追討協力を期待する。一方その頃平氏の攻撃の矛先は頼朝やのうて、養和元年(1181年)6月の[[横田河原の戦い]]以降活発化した[[若狭国|若狭]]、[[越前国|越前]]やらなんやらの北陸反乱勢力に差し向けられはることとなりよった。また、[[遠江国|遠江]]には未だ独立的立場をとる[[安田義定]]がおり頼朝が平氏勢力と直接対峙するっちうことはこの時期へんかったちうわけや。せやけど、北方に勢力をはる[[奥州藤原氏]]の動向はわからず頼朝は坂東から身動きのとれへん状態が続く。翌年の[[寿永]]元年([[1182年]])は天候不順による[[養和の飢饉|養和の大飢饉]]により平氏は追討活動を行なうことでけへんかったちうわけや。その年頼朝は[[伊勢神宮]]に平氏打倒の願文を奉じ、藤原秀衡の調伏を祈願し[[江ノ島]]に[[弁才天]]を勧請する。また同年8月に妻政子が嫡男の[[源頼家]]を出産しておる政子の安産祈願の為に[[鶴岡八幡宮]]の参道を御家人らと共に自ら手で築く。また政子の妊娠中に[[亀の前]]と密通し、それを知った政子に亀の前の住む家を破却されておる(『吾妻鏡』)。。 [[寿永]]2年([[1183年]])2月、常陸に住む叔父・源義広が21日に鎌倉を攻めるべく兵を挙げたちうわけや。きょうび、主な御家人らは平氏の襲来に備え[[駿河国]]に在ったため、対応に苦慮した頼朝はそれを[[小山朝政]]らに託し、自らは鶴岡八幡宮で東西の戦いの静謐を祈る。朝政らは[[野木宮合戦]]で義広らを破り、逃げる義広の兵を頼朝の異母弟である[[源範頼]]らが討った。頼朝は義広とそれに与した武士の所領を自らの御家人に与える。これにより関東で頼朝に敵対する勢力は無くなりよったちうわけや。 === 義仲との戦い === [[寿永]]2年([[1183年]])春、以仁王の令旨を受けて挙兵しとった従兄弟の[[源義仲]]が、頼朝に追われた叔父の源義広・源行家を庇護した事により、頼朝と義仲は武力衝突寸前となる。せやけど、両者の話し合いで義仲の嫡子義高を頼朝の長女大姫の婿として鎌倉に送る事で合意し、和議が成立した『平家物語』『源平盛衰記』ではこのあたりを次のように記しておる。[[相模国]][[松田町|松田]]に住んどった源行家より所領を望まれ、頼朝が断ると行家は越後の義仲に従うべく[[信濃国]]へと走ったちうわけや。頼朝は[[武田信光]]の讒言を受け義仲を討つべく鎌倉を発する。義仲は越後国[[妙高市|関山]]で2,000余騎を率い待ち構え、頼朝は10万余騎を率いて信濃国佐樟川へ陣を取ったちうわけや。義仲は劣勢を悟ると越後国府へと戻り、頼朝に忠誠を誓う書状を送る。頼朝は天野遠景と岡崎義実を使者として返し、行家か義仲の嫡男義高を差し出すように求める。義仲はこの時11歳の義高を差し出すと、頼朝は義高を鎌倉に住まわせ、6歳の長女大姫の婿としたちうわけや。。 義仲は行家・義広と共に平氏との戦いに勝利を続け、7月に平氏一門が[[安徳天皇]]と共に都を落ちると、大軍を率いて入京し、[[後白河天皇|後白河法皇]]に召され[[平宗盛]]ら平氏追討の命を得る。せやけど寄せ集めである義仲の軍勢は統制が取れておらへんし、飢饉に苦しむ都の食糧事情を悪化させ、また義仲が皇位継承に介入した事により院や廷臣たちの反感を買った。[[朝廷]]と京の人々は頼朝の上洛を望み、後白河法皇は義仲を西国の平氏追討に向かわせ、代わって頼朝に上洛を要請する。せやけど10月7日、頼朝は使者を返して要請を断ったちうわけや。その理由として、一つは[[藤原秀衡]]と[[佐竹隆義]]に鎌倉を攻められはる恐れ、二つは数万騎を率い入洛したら京がもたなしておる。10月9日に朝廷は[[平治の乱]]で止めた頼朝の位階を復したちうわけや。14日には[[東海道]]と[[東山道]]の所領を元の[[本所]]に戻しその地域の年貢・官物を頼朝が進上し、その命令に従わぬ者の沙汰を頼朝が行なうゆう内容の宣旨が下された([[寿永二年十月宣旨]])。頼朝は既に実力で制圧しとった地域の所領の収公や御家人の賞与罰則をおこなっとったが、そら朝廷からみれば非公式なもんやったちうわけや。寿永2年10月に宣旨が下されたことにより、当初「反乱軍」と見なされとった頼朝率おる鎌倉政権は朝廷から公式に認められはる勢力となりよったちうわけや。 閏10月15日、頼朝の上洛を恐れる義仲は、平氏追討の戦いに敗れると京に戻り、頼朝追討の命を望むが許されへんし、11月には頼朝が送った[[源義経]]率おる軍が[[近江国]]へと至る。平家と義経に挟まれた義仲は、院を攻め後白河法皇を拘束すると、頼朝追討の宣旨を引き出し、寿永3年([[1184年]])1月には[[征夷大将軍]](または[[征東大将軍]])に任ぜられはる。せやけど20日に[[源範頼]]と義経は数万騎を率いて京に向かい、防ぐ義仲は近江国[[大津市|粟津]]で討たれたちうわけや。 頼朝は鎌倉に在った義高の殺害を企て、これを大姫が義高に伝えると、4月21日に義高は女房に扮し鎌倉を逃れたちうわけや。頼朝は怒って追手を発し、24日に[[武蔵国]]入間川原で義高を討つ。大姫は嘆き悲しみ、憤った母の[[北条政子|政子]]は義高を討った家人を梟首するが、大姫はその後も憔悴を深め、後にわずか20歳で亡なる事となる。 === 平氏追討 === 義仲を討った範頼と義経は、平氏を追討すべく京を発し、[[元暦]]元年([[1184年]])2月7日、[[摂津国]][[一ノ谷の戦い]]で勝利し、[[平重衡]]を捕え京に連れ帰った。頼朝は[[四国]]に逃れた平氏を更に追討すべく、[[九州]]・四国の武士に平氏追討を求める書状を下す。 6月5日[[平頼盛]](命の恩人[[池禅尼]]の子)頼朝は義仲失脚にあたって[[平治の乱]]で命を救われた[[池禅尼]]の息子である平頼盛を通じて法皇と交渉を行っており、頼盛が鎌倉へ下った際、平家都落ちの際奪われとった官職と荘園を戻させ、手厚くもてなしておる(『吾妻鏡』)。、鎌倉に戻った範頼、[[源広綱]]、[[平賀義信|源義信]]、[[一条能保]](同母姉妹の夫)らの官位を朝廷から得る。この時、在京しとった義経は戦功がありながら任官から外されており、8月6日、後白河法皇の意向を受けて頼朝の内挙を得んと[[検非違使]]に任官し、激怒した頼朝は義経を平氏追討軍から外したこの任官が頼朝の不興を買ったゆう話はきょうびでは否定的な見方をされつつあるんや。また、義経が西国攻めを任されへんかった理由として、義経は「京都の治安維持」を要請されその必要上西国に出兵させることがでけへんかった(菱沼一憲『源義経の合戦と戦略』)、一の谷の戦いの直後伊勢・伊賀で平家の残党勢力が反乱を起こした為に出撃でけへんかった(元木泰雄『源義経』)等の説が提示されておる。。8月8日、範頼を大将とする平氏追討軍が鎌倉から出陣する。従わせた家人は[[北条義時]]、[[足利義兼]]、[[千葉常胤]]、[[三浦義澄]]、[[小山朝光]]、[[比企能員]]、[[和田義盛]]、[[天野遠景]]らであるんや。頼朝は範頼に対し京への駐留を禁じており、追討軍は27日に京へ入ると29日に平氏追討使の官符を賜い、9月1日には西海へと赴いた。 10月6日、公文所を開き[[大江広元]]を別当に任じる。公文所は後に[[政所]]と名を改め、後の[[鎌倉幕府]]における政務と財政を司る事となる。20日には訴訟を司る[[問注所]]を開き、[[三善康信]]を執事とする。この時期になると[[二階堂行政]]、平盛時ら中下級の有能な官ヤカラが才能を発揮する場を求めて鎌倉に下向するようになり、彼らが幕府初期官僚組織を形成する。 [[文治]]元年([[1185年]])1月6日、西海の範頼から兵糧と船の不足、関東への帰還を望む東国武士達の不和やらなんやら窮状を訴える書状が届く。頼朝は[[安徳天皇]]や[[平徳子|建礼門院]]の無事と、軍を動かさず筑紫の武士からくれぐれも反感を得ぬ様に記した書状を返し、九州の武士には、範頼に従い平氏を討つ事を求める。追討軍から外されて都にいた義経の四国派遣を決め、10日、義経は[[讃岐国]][[屋島]]に拠る平氏追討へ向かう。26日、九州の武士から兵糧と船を得た範頼は、[[周防国]]から[[豊後国]]へと渡る。2月19日、義経は[[屋島の戦い]]で平氏を海上へと追い、3月24日、[[壇ノ浦の戦い]]で安徳天皇ら平氏一門は入水し、[[平宗盛]]、建礼門院らを捕え、遂に平氏を滅ぼしたちうわけや。 4月27日に平宗盛を捕らえた功により、[[従二位]]へ昇ったちうわけや。 === 義経追放 === [[文治]]元年([[1185年]])4月、平氏追討で[[侍所]]所司として[[源義経|義経]]の補佐を務めた[[梶原景時]]から、義経を弾劾した書状が届くそれには義経の専横や東国武士達の反感が記されとったとされておる(『吾妻鏡』)。。4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り東国への帰還を禁じるが、同じく任官を受けた義経には咎めを与えへんかったちうわけや。景時の書状の他にも、範頼の管轄への越権行為、配下の東国武士達への勝手な処罰やらなんやら義経の専横を訴える報告が入り、5月、御家ヤカラに義経に従ってはやったらへんゆう命が出されたちうわけや。その頃義経は[[平宗盛]]父子を伴へん[[相模国]]に凱旋する。せやけど頼朝は義経の鎌倉入りを許さへんし、宗盛父子のみを鎌倉にぶちこむ。[[腰越]]に留まる義経は、許しを請う[[腰越状]]を送るが、頼朝は宗盛との面会を終えると、義経を鎌倉に入れぬまんま、6月9日に宗盛父子と[[平重衡]]を伴なわせ帰洛を命じる。義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成すの輩は、義経に属くべき」と言い放つ。これを聞いた頼朝は、義経の所領をみな没収した延慶本『平家物語』によると義経は鎌倉入りを許され頼朝と対面し、慰安されたのち鎌倉んはずれで待機されたとされておる。。 義経が[[近江国]]で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした[[東大寺]]へ送ると、8月4日、頼朝はかつて[[源義仲]]に属した叔父[[源行家]]の追討を[[佐々木定綱]]に命じたちうわけや。9月に入り京の義経の様子を探るべく[[梶原景季]]を遣わすと、義経は痩せ衰えた体で景季の前に現れ、行家追討の要請を受けると、自身の病と行家が同じ[[河内源氏|源氏]]である事を理由に断ったちうわけや。10月、鎌倉に戻った景季からの報告を受けた頼朝は、義経と行家が通じておると断じ、義経を誅するべく家人の[[土佐坊昌俊]]を京に送る。対して義経は、頼朝追討の勅許を[[後白河天皇|後白河法皇]]に求めたちうわけや。10月17日、頼朝の命を受けた土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲ったが、応戦する義経に行家が加勢し、襲撃は敗北に終わる。義経は土佐坊が頼朝の命で送られはったことを確かめ、頼朝追討の宣旨をもっかい朝廷に求め、後白河法皇はその圧力に負け義経に宣旨を下したちうわけや。10月24日頼朝は源氏一門やようけの御家人を集め、父義朝の菩提寺[[勝長寿院]]落成供養を行ったちうわけや。その日の夜、朝廷の頼朝追討宣旨に対抗し御家ヤカラに即時上洛の命を出すが、その時鎌倉に集まっとった2098人の武士のうち、命に応じた者はわずか58人やったちうわけや。頼朝は自らの出陣を決め、行家と義経を討つべく29日に鎌倉を発し、11月1日に[[駿河国]][[黄瀬川]]に着陣したちうわけや。一方の都の義経は頼朝追討の兵が集まらへんし、11月3日、郎党や行家と共に戦わずして京を落ちたちうわけや。海路西国を目指す途上暴風雨ちゃんに会い、船団は難破、一行は散り散りになり、義経は行方をくらませ、妾の[[静御前]]が吉野山で捕らえられておる。 === 天下の草創 === 11月8日、頼朝は都へ使者を送ると、黄瀬川を発って鎌倉へ戻る。11月上旬、義経・行家と入れ替わるように京都に上った東国武士の態度は強硬で、法皇の[[知行国]]の[[播磨国]]に向かい、法皇の代官を追い出して倉庫群を封印しておる。11日、朝廷は頼朝の怒りに狼狽し、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下されるきょうび鎌倉では駿河以西の御家人に書状を送り、今度の頼朝の上洛は取り止めたがなお怠りなく軍備を固めるように命じて、いざとなったら大挙出兵して上洛する場合に備えておる。。12日、[[大江広元]]は処置を考える頼朝に対して全国への[[守護]]・[[地頭]]の設置を進言。これに賛同した頼朝は、周章する朝廷に対し強硬な態度を示して攻勢をかける法皇は[[高階泰経]]を通じて鎌倉に弁明の使者を出し、使者は11月15日に到着したが恐怖にかられて営中に参ぜへんし、[[一条能保]]の屋敷に行って鎌倉殿あての書状を持参したことを告げたちうわけや。能保にあてた一通には「義経等の事は、まるっきし泰経の仕組んやもんやのうて、ただ義経の兵力を恐れて院に奏上しただけであるんや」と取り成しを願う内容やったちうわけや。能保は使者を頼朝の所へ連れて行き、泰経の頼朝宛の書状を披露したちうわけや。それには「行家・義経謀反のことは、天魔の所為ちうほかいへん。頼朝追討の宣旨を下さねば宮中で自殺するやらなんやらとぬかすさかい、当座の騒ぎを避けるための処置なんやし、法皇の本心とちゃうかった」ちう法皇の意向に従った弁明やったちうわけや。11月26日、鎌倉の使者が泰経に返事の書状を持参して、院の御所の泰経を尋ねると、不在ちう答えやったさかい大いに怒り、文箱を院の中門の廊に投げ込んで立ち去ったちうわけや。その書状は兼実に届けられ、表に「大蔵卿殿御返事」とあり、下の署名はなく、内容は「行家・義経謀反のことは、天魔の所為と言わはるが、とんでもへん事や。天魔とは仏法の妨げをなし、人倫の災いとなる者の事。頼朝はようけの朝敵を滅ぼし、政権を法皇にお任せしたんに、たちまち謀反人とされてしもたんはどへんなわけか。法皇のお考えと無関係に、そもそも院宣が下されるもんなんか。行家とええ、義経とええ、召し捕られぬトコから、国々も疲弊し、人民も難儀をする。やまと国第一の大天狗はさらに他に居申さぬぞ」と後白河法皇の変心と無責任ぶりを痛罵したもんやったちうわけや。。 24日に[[北条時政]]は頼朝の代官として1000騎を兵を率いて入京したちうわけや。頼朝の忿怒を院に告げ鎌倉側の要求を提出し、法皇との交渉に入った狼狽する法皇と泰経は25日に行家と義経の探索を命じる宣旨を重ねて出し、「行家・義経が逆風の難にあったんは天罰であるんや」と義経を罵り、泰経に謹慎を命じる。。28日に時政は[[吉田経房]]を通じ義経らの追捕の為として「守護・地頭の全国への設置」を迫り、これを認めさせる事に成功する([[文治の勅許]])。これによって鎌倉の権力の全国的政権への確定が行われる事になる。12月には義経に荷担した反幕府派の貴族を解官・配流によって一掃し、公卿たちの知行国も指定する。[[九条兼実]]ら親幕府派の公卿を[[議奏]]とし、兼実を[[内覧]]([[摂政]]・[[関白]]の職務の中の実質的な部分)に任命する申請を行い、朝廷の人事を鎌倉色に塗り替えさせる。鎌倉の政権はここに安泰を得たさかいあり、こら義経の捜索に比べるべくもへん重要性を持った成果やったちうわけや。頼朝は兼実に送った書状の中で「今度は天下の草創なり」とその重要性を示しておる。 [[文治]]2年([[1186年]])3月には頼朝追討の宣旨を下した責任者として法皇の寵愛深い[[摂政]]の[[藤原基通]]を辞任させ、代わって兼実を摂政に任命させる。4月頃から義経が京都周辺に出没しておる風聞が飛び交い、頼朝は貴族・院が陰で操っておる事を察して憤りながらも、東北へも意識を向け[[奥州]]の[[藤原秀衡]]に「秀衡は[[奥六郡]]の主、オノレは東海道の惣官であるんや。水魚の交わりをなすべきであるんや。都に送る馬や金は鎌倉で管領して伝送しよう」ちう書状を送り、探りを入れておる。 同年5月12日には[[和泉国]]に潜んどった[[源行家|行家]]を討ち取る。頼朝は捜査の実行によって義経を匿う寺院勢力に威圧を加え、彼らの行動を制限したちうわけや。その間に発見された義経の腹心の郎党たちを逮捕・殺害し、院近臣と義経が通じておる確証を上げる。11月、「義経を逮捕できへん原因は朝廷にあるんや。義経を匿ったり義経に同意しておるもんがおる」と頼朝は朝廷に強硬な申し入れを行なりよったちうわけや。朝廷は重ねて義経追捕の院宣を出し、各寺院で逮捕の為の祈祷を大規模に行う事になりよったちうわけや。京都に見ホらられはった義経は、奥州に逃れ[[藤原秀衡]]の庇護を受ける事となりよったちうわけや。 頼朝は、諸国から争いの訴えやらなんやらをようけ受ける様になり、また[[平重衡]]に焼かれた[[東大寺]]の再建やらなんやらも手がける。なお、頼朝は義経を庇護する寺社勢力の力を削ぐ為、あえて捕縛せんと潜伏地を遅れて追跡したのや、とする説もあるんや。 === 奥州合戦 === {{Main|奥州合戦}} [[文治]]3年([[1187年]])10月、[[藤原秀衡]]が子の[[藤原泰衡|泰衡]]らに[[源義経|義経]]を将軍とする様に遺言して没する。翌年4月に頼朝は義経追討の[[院宣]]を院に求め、泰衡に義経を召し進せよとの宣旨が下される。屈した泰衡は文治5年([[1189年]])閏4月、[[衣川館|衣川の館]]に住む義経を襲い、自害へと追いやったちうわけや。 6月13日に義経の首が[[鎌倉]]に届けられはると、頼朝は[[和田義盛]]と[[梶原景時]]に実検させる。25日に泰衡追討の宣旨を朝廷に求め、[[御家人]]を鎌倉に集めるが、勅許は下されへんかったちうわけや。頼朝は[[大庭景義]]を呼び、「今に勅許無し。なまじいに御家人を召し集む。これをして如何」と問うと、景義は「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」と答えたちうわけや。頼朝はしきりに喜び、景義に褒美を与える。 7月19日、ついに勅許を待たへんし、およそ1,000騎を率いて鎌倉を発して泰衡追討に向かい、[[奥州合戦]]が始まる。25日には[[宇都宮市|宇都宮]]に到着、[[宇都宮二荒山神社|宇都宮大明神]]に戦勝を祈願するとともに[[佐竹秀義]]らを軍に加えたちうわけや。 [[画像:Yoritomo map4.png|left|陸奥(東北地方太平洋側)の地図]] 8月7日から10日にかけて行なわれた[[阿津賀志山の戦い]]において[[藤原国衡]]を討ち取り、頼朝はさらに進撃し、泰衡を追って北上する。22日、[[平泉]]の泰衡の館に着くが、泰衡は館を焼き逃亡しとったちうわけや。頼朝は朝廷に戦況を報ずる使者を発し、泰衡の捜索を行う。26日、泰衡は書状を頼朝に届け、状中で助命を乞い返報を比内郡にホら置く様に望む。書状を受けた頼朝は比内郡での泰衡捜索を命じ、9月2日には岩井郡[[盛岡市|厨河]]へと陣を移す。厨河はかつて[[前九年の役]]で[[源頼義]]が[[安倍貞任]]らを討った地なんやし、頼朝はその佳例に倣い、厨河での泰衡討伐を望んやらであるんや。3日、泰衡はその郎従である[[河田次郎]]の裏切りにより討たれたちうわけや。6日、河田次郎が泰衡の首を持ち、[[紫波町|陣岡]]に戻っとった頼朝の下へ参じる。頼朝は実検を行うと、河田次郎を主人を討った不義による斬罪を命じ、泰衡の首はかつて[[源頼義]]が[[安倍貞任]]の首を釘で打ち付けさせた例に倣わせたちうわけや。 9日、奥州を征した頼朝に泰衡征伐の宣旨がようやっと届いたちうわけや。 厨河に戻った頼朝は、[[奥州藤原氏]]の建立した[[中尊寺]]、[[毛越寺]]、宇治[[平等院]]を模した[[無量光院跡|無量光院]]やらなんやらの寺領の安堵を命じる。平泉へ戻ると諸寺を参拝し、感銘を受けた頼朝は鎌倉に戻った後に中尊寺境内の大長寿院に模した[[永福寺跡|永福寺]]を建立しておる。24日、[[葛西清重]]に平泉の治安維持を命じると共に、[[伊達郡]]、[[磐井郡]]、[[牡鹿郡]]やらなんやらを与える。27日、かつて[[安倍頼時]]の住んや衣川の旧跡を訪れ、28日に平泉を発ち、10月24日に鎌倉へ帰着したちうわけや。 この奥州合戦には関東のみやったらへんし、全国各地の武士が動員されたちうわけや。また、かつて敵対して捕虜の身になっとったもんに対したかて、この合戦に従って戦功を上げて頼朝の下につくゆう挽回のチャンスも与えられとったちうわけや。さらに、前九年の役の源頼義の先例を随時持ち出すことによちう、坂東の武士達と頼朝との主従関係をさらに強固にする役割も果たしたちうわけや。 この奥州合戦の終了で治承4年から続いとった内乱も終結を迎えることになる。 === 征夷大将軍 === [[文治]]5年([[1189年]])11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は[[按察使]]への任官を打診され、さらに勲功の有った[[御家人]]の推挙を促されるが、頼朝はこれらを辞する。[[建久]]元年([[1190年]])10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、[[平治の乱]]で父が討たれた[[尾張国]]野間、父兄が留まった[[美濃国]][[大垣市|青墓]]やらなんやらを経て、11月7日に千余騎の[[御家人]]を率いて入京し、かつて[[平清盛]]が住んや[[六波羅]]の跡に建てた新邸に入ったちうわけや。 9日、[[後白河法皇]]に拝謁し、長時間余人を交えず会談したちうわけや。ここで義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持しとったやまと国総追補使・総地頭の地位を、より一般的な治安警察権の行使のために改め、永久的なもんに切り替わったと推定される。せやけど、東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望しとった[[征夷大将軍]]に任官できず頼朝が征夷大将軍を望んやもんの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の記述やらなんやらから長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条及び『玉葉』寿永3年2月20日及び3月28日条から、源義仲滅亡時に後白河法皇から戦功として征夷将軍の任命の打診が行われて頼朝がこれを辞退したとする見解が出されており、頼朝の征夷大将軍補任の経緯及び当時の征夷大将軍と官職に実質的権限が存在したんか(征夷大将軍の権限とされるもんは実際には頼朝個人に対して与えられはった警察的・軍事的特権である可能性の指摘)について疑問視する説が出されておる。(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194)、代わりに[[大納言]]への任官を求められはるが、頼朝は辞退し、[[後鳥羽天皇]]への拝謁を終えると六波羅に戻る。せやけど六波羅に、「今に於いては異儀有るべからず」と記した[[権大納言]]任官の院宣が届き、もっかい辞退の書を返すが、容れられんと除目は行われたちうわけや。さらに22日には武官の最高職である近衛大将への任官も打診され、頼朝はやっぱり辞退するが、24日に[[右翼近衛大将]]へと任ぜられはったちうわけや。12月3日、両官を辞し、11日に勲功の有った御家人を任官させる。権大納言就任が決まった9日の夜、頼朝は[[九条兼実]]と面会して胸襟を開いて語りあい、次のように述べておる。「今の世は法皇が思うまんまに政治をとり、天皇どエライ皇太子と変わりへんありさま。さいわいあんはんもまだ若うて先は長い。わてにも運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつかじぇったい天下の政を正しくする日が来よるやろう」。ほんで、逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ意味で一旦は「朝大将軍」(国の大将軍)を受けた方がええと判断したちうわけや。14日に鎌倉へ戻るべく京を発し、29日に鎌倉へと戻ったちうわけや。 [[建久]]3年([[1192年]])3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、頼朝は[[征夷大将軍]]へと任ぜられはったちうわけや。一般的には将軍就任によって[[鎌倉幕府]]が開かれたとされる。 [[建久]]4年([[1193年]])5月28日、[[御家人]]を集め[[駿河国]]で巻狩を行っており、その夜に御家人の[[工藤祐経]]が[[曾我兄弟の仇討ち]]に遭い討たれる。宿場は一時混乱へと陥り、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わると、[[源範頼]]は嘆く[[北条政子]]に対し「範頼左翼て候へば御代は何事か候べきと」と慰めたちうわけや。この発言が頼朝に謀反の疑いを招いたとされる。8月2日、頼朝の元に謀反を否定する起請文が届くが、「源」の氏名をつこうた事に激怒したちうわけや。8月10日、頼朝の寝床に潜んどった範頼の間者が捕縛される。これにより範頼は伊豆へ流され、のちに誅殺されたちうわけや。建久5年([[1194年]])には有力御家人である[[安田義定]]を誅しておる。建久6年([[1195年]])3月、[[摂津国]]の[[住吉大社]]において幕府御家人を集めて大規模な[[流鏑馬]]を催す。建久8年([[1197年]])には、[[薩摩国|薩摩]]や[[大隅国|大隅]]やらなんやらで[[大田文]]を作成させ、地方支配の強化を目指しておる。 [[建久]]6年(1195年)2月、頼朝は[[東大寺]]再建供養に出席するため、政子と[[源頼家|頼家]]・大姫ら子女達を伴ってもっかい上洛し、長女・大姫を[[後鳥羽天皇]]の妃にすべく朝廷に入内運動を始める。やけど、盟友である九条兼実は既に娘・[[九条任子|任子]]を入内させており、反対されることを頼朝は危惧したちうわけや。ほんで京都では兼実やのうて、その政敵である[[土御門通親]]や[[高階栄子|丹後局]]と接触。大量の贈り物や莫大な荘園の安堵やらなんやらを行へん、大姫入内の為の朝廷工作を計ったちうわけや。建久7年(1196年)11月、兼実は後鳥羽天皇への通親の讒言により一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる([[建久七年の政変]])。これにより、朝廷の親幕府派の壊滅、反幕府派の台頭を招くこととなりよったちうわけや。建久8年(1197年)7月、入内計画は大姫の死によりシッパイに終わる。建久9年(1198年)正月、後鳥羽天皇は通親の養女が生んや[[土御門天皇]]に譲位して上皇となり、通親は天皇の外戚として権勢を強めたちうわけや。もはや朝廷に代弁者を持たへん頼朝の反対はシカトされたちうわけや。頼朝はさらに次女・[[三幡]]姫の入内を企てんねんが、建久9年([[1198年]])12月27日、[[相模川]]で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かでは無い。 建久10年([[1199年]])1月11日に出家し、13日に死去したちうわけや。[[享年]]53(満51歳没)。 == 年表 == * 年月日は出典が用おる暦なんやし、当時は宣明暦が用いられておる * 西暦は元日を宣明暦に変更しておる {| class=wikitable width="100%" |- !style="width:4em;"|[[和暦]] !style="width:4em;"|[[西暦]] !style="width:6em;"|月日 ([[宣明暦]]長暦) !内容 !style="width:5em;"|出典 |- |[[久安]]3年 |[[1147年]] |4月8日 |生誕 |? |- |[[保元]]3年 |[[1158年]] |2月3日 |[[統子内親王|皇后宮]]少進 |[[公卿補任]] |- |rowspan=7|[[平治]]元年 |rowspan=7|[[1159年]] |1月29日 |[[右翼近衛将監]]兼任 |公卿補任 |- |2月13日 |[[統子内親王|上西門院]]蔵人補任。皇后宮少進を止む。 |公卿補任 |- |3月1日 |母の死により服解 |公卿補任 |- |6月28日 |蔵人(二条天皇)補任。 |公卿補任 |- |12月9~26日 |[[平治の乱]] |百錬抄 [[平治物語]] |- |12月14日 |[[従五位|従五位下]][[兵衛府|右翼兵衛権佐]]に叙位転任。 |公卿補任 |- |12月28日 |[[解官]] |公卿補任 |- |[[永暦]]元年 |[[1160年]] |3月11日 |[[伊豆国|伊豆]]へ配流 |清獬眼抄 |- |不詳 |不詳 |不詳 |[[伊東祐親]]三女・八重姫との間に千鶴丸を成すが祐親に殺される |[[曽我物語]] |- |不詳 |不詳 |不詳 |[[北条時政]]長女・[[北条政子|政子]]と結婚 |[[吾妻鏡]] [[尊卑分脈]] |- |rowspan=12|[[治承]]4年 |rowspan=12|[[1180年]] |4月27日 |[[以仁王]]令旨を受ける |[[吾妻鏡]] |- |8月17日 |配所の伊豆で挙兵、[[山木兼隆|平兼隆]]を討つ |吾妻鏡 |- |8月23日 |[[石橋山の戦い]] |吾妻鏡 |- |8月29日 |[[安房国]]へと逃れる |吾妻鏡 |- |9月5日 |叛逆として追討の宣旨を受ける |[[玉葉]] |- |9月29日 |2万7,000余騎が従い集まる |吾妻鏡 |- |10月7日 |[[鎌倉]]入府 |吾妻鏡 |- |10月20日 |[[富士川の戦い]] |吾妻鏡 |- |10月21日 |末弟・[[源義経]]が参じる |吾妻鏡 |- |11月5日 |[[常陸国]]の源氏の[[佐竹秀義]]を破る |吾妻鏡 |- |11月7日 |重ねて追討の宣旨を受ける |吾妻鏡 |- |11月17日 |[[和田義盛]]を[[侍所]]別当に補す |吾妻鏡 |- |[[養和]]元年 |[[1181年]] |閏2月4日 |[[平清盛]]薨去 |玉葉 |- |[[寿永]]元年 |[[1182年]] |8月12日 |次男・[[源頼家|頼家]]誕生 |吾妻鏡 |- |rowspan=6|寿永2年 |rowspan=6|[[1183年]] |2月23日 |[[野木宮合戦]]で叔父・源義広を破る |吾妻鏡 |- |春 |[[源義仲]]と[[信濃国]]で対峙し、義仲の長男・源義高を人質とする |[[平家物語]] |- |7月28日 |義仲と[[源行家]]が入京 |玉葉 |- |9月 |義仲追討令を受ける |玉葉 |- |10月9日 |従五位下に復位 |公卿補任 |- |10月14日 |[[寿永二年十月宣旨]] |[[百錬抄]]、玉葉 |- |rowspan=6|[[元暦]]元年 |rowspan=6|[[1184年]] |1月20日 |[[宇治川の戦い]]、義仲を討つ |吾妻鏡 |- |2月7日 |[[一ノ谷の戦い]] |吾妻鏡 |- |3月27日 |[[正四位|正四位下]]に昇叙 |吾妻鏡 |- |4月 |鎌倉から逃れた源義高を殺す |吾妻鏡 |- |10月6日 |[[大江広元]]を別当とし[[政所|公文所]]を開く |吾妻鏡 |- |10月20日 |[[三善康信]]を執事とし[[問注所]]を開く |吾妻鏡 |- |rowspan=14|[[文治]]元年 |rowspan=14|[[1185年]] |2月19日 |[[屋島の戦い]] |吾妻鏡 |- |3月24日 |[[壇ノ浦の戦い]]にて「平家滅亡」 |吾妻鏡 |- |4月15日 |内挙を得んと官位を得た関東の御家人を追放する |吾妻鏡 |- |4月27日 |[[従二位]]へ昇叙 |吾妻鏡 |- |5月15日 |義経が[[平宗盛]]と[[平清宗|清宗]]父子を伴い鎌倉ねきに帰参するが、義経は鎌倉外に留める |吾妻鏡 |- |5月16日 |宗盛、清宗と面会 |吾妻鏡 |- |6月9日 |義経を鎌倉に入れぬまんま、宗盛と清宗を伴わせ京に戻す |吾妻鏡 |- |10月17日 |六十余騎で京の義経邸を襲う |吾妻鏡 |- |10月18日 |義経と行家に頼朝追討令が下る |玉葉 |- |10月25日 |義経を討つべく軍を発する |吾妻鏡 |- |11月3日 |義経と行家を京より追う |玉葉 |- |11月11日 |義経と行家を捕えよとの院宣が下る |玉葉 |- |11月28日 |[[文治の勅許]] |吾妻鏡、玉葉 |- |12月 |諸国への[[地頭]]の設置が認められはる |吾妻鏡 |- |rowspan=8|文治5年 |rowspan=8|[[1189年]] |1月5日 |[[正二位]]に昇叙 |公卿補任 |- |閏4月30日 |衣川で義経が[[藤原泰衡]]に討たれる |吾妻鏡 |- |7月~9月 |[[奥州合戦]]、[[奥州藤原氏]]平定 |吾妻鏡 |- |11月7日 |上洛 |吾妻鏡 |- |11月9日 |[[大納言|権大納言]] |吾妻鏡 |- |11月24日 |[[近衛府|右翼近衛大将]] |吾妻鏡 |- |12月3日 |両官辞任 |吾妻鏡 |- |12月29日 |鎌倉へ帰還 |吾妻鏡 |- |rowspan=3|[[建久]]3年 |rowspan=3|[[1192年]] |3月13日 |[[後白河天皇|後白河法皇]]崩御 |玉葉 |- |7月12日 |[[征夷大将軍]] |公卿補任 |- |8月9日 |次男・[[源実朝]]誕生 |吾妻鏡 |- |rowspan=2|建久4年 |rowspan=2|[[1193年]] |5月28日 |[[富士の巻狩り]]の際に[[曾我兄弟の仇討ち]]が起こる |吾妻鏡 |- |8月17日 |弟・[[源範頼|範頼]]を伊豆へ配流 |吾妻鏡 |- |建久6年 |[[1195年]] |3月12日 |[[東大寺]]供養 |吾妻鏡 |- |rowspan=1|建久9年 |rowspan=1|[[1198年]] |12月27日 |[[相模川]]橋供養 |[[承久記]]等 |- |rowspan=2|建久10年 |rowspan=2|[[1199年]] |1月11日 |出家 |公卿補任 |- |1月13日 |薨去 |[[承久記]]等 |} == 祭祀 == [[画像:minamoto-no-yoritomo_haka.jpg|200px|thumb|白旗神社内 源頼朝墓所]] 墓所は[[鎌倉市]]の大倉山中腹に質素な石層塔が残っておる。 [[画像:鶴岡八幡宮境内白旗神社.JPG|150px|thumb|left|鶴岡八幡宮境内 白旗神社]] 死後その亡骸は彼の持仏堂に葬られはったちうわけや。持仏堂は[[正治]]2年([[1200年]])から法華堂と呼ばれ、ようけの法要が営まれておる。安永8年([[1779年]])2月には、[[薩摩藩]]藩主[[島津重豪]]が現在の石塔を建てたちうわけや。[[明治]]に入ると[[廃仏毀釈]]により石塔の前に在った法華堂は壊され、明治5年([[1872年]])、その跡に頼朝を祀る[[白旗神社]]が建てられはったちうわけや。なお石塔は[[昭和]]2年([[1927年]])に「法華堂跡(源頼朝墓)」として国の[[史跡]]に指定されておる。 [[鶴岡八幡宮]]境内にも白旗神社があり、社伝によると[[北条政子]]が朝廷より白旗大明神の神号を賜り[[正治]]2年([[1200年]])に創建したされる。[[源頼家]]の創建とも伝わる。明治21年([[1888年]])に現在地に遷座したちうわけや。明治以降は[[日光東照宮]]の相殿にも祀られておる。 現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われておる。鹿児島の島津家の代表も参列しておる。また日光東照宮で春と秋に行われる千人武者行列では、頼朝の神輿を担ぐ行列が参道を往復し、[[兵庫県]][[川西市]]の[[多田神社]]の[[源氏まつり]]では、頼朝に扮した騎馬武者を見られはる。 == 容姿 == 『[[平治物語]]』は「年齢より大人びておる」、『[[源平盛衰記]]』は「顔が大きく容貌は美しい」と記しておる。[[寿永]]2年(1183年)8月に鎌倉で頼朝と対面した中原泰定の言葉として『[[平家物語]]』に「顔大きに、背低きかりけり。容貌優美にして言語文明なり」とあるんや。[[九条兼実]]の日記『[[玉葉]]』は「頼朝の体たる、威勢厳粛、その性強烈、成敗文明、理非断決」(10月9日条)と書いておる。身長は[[大山祇神社]]に奉納された甲冑を元に推測すると165センチ前後はあったとされ、当時の平均よりは長身であるんや。 肖像はようけ伝わっておる。[[京都]][[神護寺]]蔵の肖像画([[神護寺三像]])は、頼朝を描いたもんとして伝わり、[[大和絵]]肖像画の傑作として[[国宝]]に指定されておる。せやけど平成7年([[1995年]])に[[米倉迪夫]]が、その画法や服装から[[足利直義]]を写した物とする学説を発表し、像主について議論が続いておる(→詳細は[[神護寺三像]]を参照のこと)。[[鶴岡八幡宮]]に伝わっとった木像は、[[江戸時代]]には頼朝像とされ、現在は[[東京国立博物館]]が蔵し[[重要文化財]]に指定されておる。[[甲斐善光寺]]蔵の木造源頼朝座像は戦国期に[[信濃国|信濃]][[善光寺]]から移されたもんであるが、胎内銘から[[文保]]3年([[1319年]])に彫られはった最古の頼朝像であると考えられておる。 == 人物像 == 頼朝配下の東国武士団は独立心がつよ、同族程度の団結以外に大きな一つの組織に結集する事を知らへんし、戦では個々の功名にはやって各個撃破されるような体やったもんを、頼朝は御家人として一つにまとめ上げたちうわけや。 文治元年(1184年)4月、頼朝の推薦を受けんと朝廷の官職についた御家ヤカラの容姿を細かくあげつらって罵倒する記述があるが、こら頼朝が御家人一人一人の容貌を含めて熟知しとった事を示すもんであるんや。ある合戦の報告を聞いて「◎は討ち死に、△は遁走、ちうがそへんな事はあるまい。◎が遁走、△が討ち死にの間違いやろう」と指摘し、調べてみるとその通りやったゆうエピソードが『吾妻鏡』にようけあるんや。側近の一人で公事奉行人の[[藤原俊兼]]が贅沢な衣服をまとっておるのを見た頼朝は、刀で小袖を切り落とし、「千葉常胤や土肥実平やらなんやらは善悪も判断できぬ程度の武士やけど、衣服やらなんやらは粗悪な品を用いて贅沢を好まへん。やからその家は裕福でようけの家人・郎党を養い勲功をあげようとしておる。それやんにおんどれは財産の使い方も知らへんし、身の程をわきまえておらん」と訓戒を加えたちうわけや。こへんな風に側近官僚と東国御家人の双方ともによう知りぬき、適材適所を使いこなしておったさかいあるんや。 オノレの妻子には甘く、[[富士の巻狩り]]で12歳の息子[[源頼家|頼家]]が鹿を仕止めた時は喜んで妻の[[北条政子]]に報告の使いを送り、政子に武士の子やったら当たり前の事であるとたしなめられておる。 生涯において前線で戦うことは少へんかったが、[[石橋山の戦い]]では鎧武者を一撃で倒すやらなんやら叔父[[源為朝]]譲りの強弓を披露しておる。 [[慈円]]と親交があって和歌を詠み、贈答歌の「陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬふみつくしてよ壺の石ぶみ」は[[新古今和歌集]]に入撰しておる。 == 評価 == 頼朝の開いた政権は制度化され、次第に朝廷から政治の実権を奪い、後に[[幕府]]と名付けられ、王政復古まで足掛け約680年間に渡り長く続くこととなる。武家政権の創始者として頼朝の業績は高く評価されており、ほとんどの[[やまと人]]は[[義務教育]]で頼朝の名を学んでおる。 その一方で、人格は「冷酷な政治家」と評される場合が多い。そら、ようけの同族兄弟を殺し、自ら兵を率おることが少なく(頼朝自身は武芸は長けとったといわれるが、戦闘指揮官としては格別の実績を示しておらへん)、主に政治的交渉で[[鎌倉幕府]]の樹立を成し遂げたことによる。判官贔屓で高い人気を持つ末弟・[[源義経|義経]]を死に至らせたことやらなんやらから、頼朝の人気はその業績にもかかわらずそれほど高くなく、小説やらなんやらに主人公として描かれることも稀であるんや。 以上は概ね現代における評価であるが、頼朝は過去にもようけの人物により評されてきたちうわけや。 ; [[北条政子]]と[[御家人]] : 頼朝の死後に起きた[[承久の乱]]で[[朝廷]]と幕府が争うと、[[北条政子]]は集まった御家人らに対し次のように述べたちうわけや。「故・右翼大将軍(頼朝)が朝敵を滅ぼし関東を開いて以降、官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い。(中略)恩を知り名を惜しむ人は、はよ不忠の讒臣を討ち恩に報おるべし。」これを聞いた御家人らは、ただ涙を流し報恩を誓ったちうわけや。頼朝の幕府内での位置と、御家人からの高い評価を知ることが出来よる。 ; [[保暦間記]] : 頼朝の死因を自らが滅ぼした源義広、義経、行家、安徳天皇の亡霊によると記しておる。当時からその生涯は罪深いもんとして捉えられとったことを伺わせる。 ; [[豊臣秀吉]] : 武辺咄聞書によると、[[鶴岡八幡宮]]白旗神社の頼朝像を参った際に、次のように述べたと伝わる。「我と御身は共に微小の身から天下を平らげたちうわけや。せやけど御身は天皇の後胤なんやし、父祖は関東を従えとったちうわけや。故に流人の身から挙兵したかてようけ者が従ったちうわけや。我は氏も系図も無いが天下を取ったちうわけや。御身より我の勝ちなり。せやけど御身と我は天下友達なり。」冗談ながらにも、頼朝の業績は血統に拠るもんがあると評しておる。 ; [[徳川家康]] : 頼朝の事績をようけ記した[[吾妻鏡]]を集めて写させたちうわけや。源氏の[[新田氏]]流を自称しとった家康は頼朝を崇拝しとり、吾妻鏡を読み頼朝の行動を学んやといわれる。 ; [[新井白石]] : [[読史余論]]の中で、政治面での功績には一定の評価を与えつつも、頼朝の行動は[[朝廷]]を軽んじ己を利するもんであるとし、総じて否定的な評価をしておる。挙兵から四年間も上洛せへんし、東国の土地を[[押領]]し家人に割け与えたんは、既に独立の志を持っとったとする。[[源義仲]]を討った理由は、義仲が朝奨に預かったことを憎んやからなんやし、また義仲が[[後白河法皇]]を幽閉した罪を問わへんかったことを責めておる。[[源義経]]との対立に関しては、朝臣に列しとった義経を京で襲ったことは、臣たる者の仕業では無いとし、襲った理由は、義経が朝賞に預かったと共に、義経の用兵を恐れたからやとする。義経が驕りに加え[[梶原景時]]の讒言により誅されたとの論には、驕りも讒言も無く誅された[[源範頼]]の例を挙げて反論し、「頼朝がごとき者の弟たる事は、最もややこしいゆうべき」と記して評を終えておる。 この他に「成敗分明(『[[玉葉]]』[[九条兼実]])」、「ぬけたる器量の人(『[[愚管抄]]』[[慈円]])」、「頼朝勲功エライためしなかりければ(『[[神皇正統記]]』[[北畠親房]])」、等があるんや。総じて政治的能力への評価は高いが、論評者が勤王家かどうか、儒教の倫理観に近いか等の見方によって全体の評価が上下する傾向があるほか、時代によっても評価が揺らぐのも特徴と言える。[[宮澤賢治]]のように奥州文化のカンペキに破壊者として批判的に見る者もおる。 == 研究 == === 清盛の遺言 === 「我の死後は堂塔も孝養も要らぬ、ただ頼朝の首を刎ね我が墓前に供えよ」は[[平家物語]]に記された文言なんやし、物語やからにかその真偽を疑う声もあるんや。 この遺言は戦国武士の感覚やったらともかく、平安時代末期の武士感覚から考えてありえへん遺言であるちう説が近年ではつよ、清盛はむしろ頼朝との和睦と後白河法皇との協調政治を望んやとも言われておる。せやけど清盛の後を継いだ宗盛が暗愚やったため、宗盛の反対で何ひとつ実現せぇへんかったゆう。 一方で、遺言に従ったんか清盛の墓所ははっきりと伝わっておらへんし、[[玉葉]]の治承5年([[1181年]])8月1日にも平家物語と似た意の清盛の遺言と共に、それ由に平家が頼朝を許すはずがあらへんと記されておる。 === 義経との対立 === 末弟・[[源義経]]を逐うに至った経緯は、古くさかいようけの人々の興味を呼び、物語が作られ、研究が成されておる。 [[吾妻鏡]]では、8月6日、京に在った義経は頼朝の内挙を得んと任官し、憤った頼朝は義経を平家追討軍から除いたことになっておる(元暦元年八月十七日条)。せやけど、この記述は同じ吾妻鏡の他の記事と齟齬を見せておるとの説もあるんや。8月3日、頼朝は義経に[[伊勢]]の[[平信兼]]追討を命じ(八月三日条)、義経は12日に出発しておる。ゴチャゴチャゆうとる場合やあれへん、要は任官よりどエライ昔に義経は西海遠征から外れとったとも考えられはる。また、26日、義経は平家追討使の官符を賜っておる(文治五年閏四月三十日条)。頼朝は義経に対して何の処罰も下しておらへんのであるゆう。一方で、頼朝が義経の無断任官を知ったんは8月17日であるさかい、それよりどエライ昔に何らかの命を義経に下しておるんは当然なんやし、平家追討使の官符を賜っておんのも、朝廷は頼朝に諮らず義経を検非違使に任じたさかいあるさかい、頼朝に諮らず平家追討の官符を下したかて、不思議は無いとも考えられはる。 義経を恐れたとの説もあるんや。戦いに敗れる事も多かった頼朝に対し、義経は平家追討で連戦連勝を遂げたさかい、頼朝は義経の軍才を恐れるに至ったとする。義経が[[藤原泰衡]]に討たれた直後に、[[奥州合戦]]を始めた事は、この説を裏付けるもんとして用いられはる。 平家滅亡後の鎌倉政権は、きわめて重大な時期に来とったちうわけや。内乱が収まると平家追討を名目にした軍事的支配権の行使が出来ななる。頼朝はそれまで軍事力を持って獲得してきたもんを、朝廷との政治交渉によちう、平時の状態でも確保し、補強せなやったらへん困難な状況に直面しとったちうわけや。そへんな時期であるために、いかに肉親であり功績のある者そやけど、オノレに反抗する者は許しておくことは出来へん。義経の背後には、武家政権確立のための対抗勢力である朝廷や奥州藤原氏があったさかいあるんや。 都落ちした義経を匿った事で鎌倉へ召還された[[興福寺]]の僧・聖弘は、義経を庇護した事を詰問する頼朝に対し、「今関東が安泰であるんは義経の武功によるもんであるんや。讒言を聞き入れ恩賞の土地を取り上げれば、人として逆心を起こすのも当然ではおまへんか。義経を呼び戻し、兄弟で水魚の交わりをされよ。オノレは義経のみを庇ってぬかすのやのうて、天下の無事を願ちうのん事であるんや。」と悪びれず直言したちうわけや。頼朝はその言葉に感じ入り、聖弘を勝長寿院の供僧職に任じた事から、義経を憎みきっとった訳ではおまへん事が伺える。頼朝は政治家なんやし、義経は軍人やったちうわけや。その相違が、平家滅亡後に露呈する事になりよったさかいあるんや。 義経が鎌倉入りを止められ血涙をもって綴った[[腰越状]]が届けられはった時、自害ののちにその首が届けられはった時、頼朝がどへんな反応を示したかは、『吾妻鏡』はなあんも伝えておらへん。 === 死因 === 死因を伝える史料は、[[相模川]]橋供養の帰路に病を患った事までは一致しておるが、その原因は定まっておらへん。[[吾妻鏡]]は「落馬」、猪隈関白記は「飲水の病」、[[承久記]]は「水神に領せられ」、[[保暦間記]]は「[[源義経]]や[[安徳天皇]]らの亡霊を見て気を失い病に倒れた」と記しておる。これらを元に、頼朝の死因は現在でもようけの説が論じられており、確定するんはもはや不可能であるんや。死没の年月日については、それ以外の諸書が一致して伝えておるため、疑問視する説は存在せん。 ; 落馬説 : 吾妻鏡に記された死因なんやし、最も良う知られはった説であるんや。せやけどその死因が吾妻鏡に登場するんは、頼朝の死から13年も後の事なんやし、死去した当時の吾妻鏡には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載がまるっきし無い。これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容やったため、[[徳川家康]]が「名将の恥になるようなことは載せなあかんではおまへん」として該当箇所を隠してしもたともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではおまへん。 : なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なる。落馬は結果であるやったら[[脳卒中]]やらなんやら[[脳血管障害]]が事故の前に起きており、落馬自体が原因やったら頭部外傷性の[[脳内出血]]を引き起こしたと考えられはる小長谷、2004年、P.74。落馬から死去まで17日ある事から、脳卒中後の誤嚥性・沈下性肺炎の可能性があるんや。 ; 尿崩症説 : 落馬して脳の[[中枢神経]]を損傷し、[[バソプレッシン|抗利尿ホルモン]]の分泌に異常を攻めて来よったして[[尿崩症]]を起こしたゆう説。この病気では尿の量が急増して水をしこたま摂取する(=「飲水の病」)ようになり、血中の[[ナトリウム]]濃度が低下するため、適切な治療法があらへん[[12世紀]]では死に至る可能性が高い。 ; 糖尿病説 : 猪隈関白記の「飲水の病」とは水を欲しがる病であり[[糖尿病]]を指すとするが、そへんな風な症状があったゆう記録はなく、可能性は低い。 ; 溺死説 : 史料は「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「海上に現れた安徳天皇」やらなんやら水を連想させる語がようけ、溺れた事が死に繋がったさかいはと見る。また[[相模川]]河口付近は馬入川とも呼ばれており、頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至った事に由来するとも伝わる。溺死説の場合、「飲水の病」は川に落ち溺れ、水を飲み過ぎた事を意味すると見る。 ; 亡霊説 : 保暦間記に記されておる。当時は亡霊や祟りが深く信じられておる時代なんやし、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたさかいあろうゆう。[[意識障害]]があったと捉えることもできる。 ; 暗殺説 : 頼朝は子の[[源頼家]]や[[源実朝|実朝]]と同じく何者かに暗殺されており、その事実を隠すべく吾妻鏡への記載を避けたとする。 ; 誤認殺傷説 : 愛人の所に[[夜這い]]に行く途中、[[不審者]]と間違われ斬り殺されたとする。 == 系譜 == 頼朝は[[清和源氏]]の庶流やけど、武家源氏の主流やった[[源頼信]]を祖とする[[河内源氏]]の七代目に当たる。 * 父:[[源義朝]] - [[源為義]]長男。[[保元の乱]]で栄進するが、[[平治の乱]]で敗れ、敗走中に殺される。 * 母:[[由良御前]] - [[藤原季範]]三女 * 兄弟 ** [[源義平]] - 悪源太。平治の乱後、平清盛暗殺のため京へ潜伏中に捕らえられ斬首される。 ** [[源朝長]] - 平治の乱後の敗走中に、戦傷が元で亡なる。 ** 源頼朝 ** [[源義門]] - 早世。 ** [[源希義]] - 同母弟。[[土佐国]]に流され、頼朝の挙兵後に討たれる。 ** [[源範頼]] - 挙兵後の頼朝に仕えるが、謀反の疑いにより[[伊豆国]]に流される。 ** [[阿野全成]] - [[常盤御前]]の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、[[源頼家]]に殺される。 ** [[義円]] - 常盤御前の子。仏門に入り、挙兵後の頼朝に仕えるが、[[墨俣川の戦い]]で平家軍に討たれる。 ** [[源義経]] - 常盤御前の子。挙兵後の頼朝に仕えるが、対立し奥州に逃れ、[[藤原泰衡]]に殺される。 ** 坊門姫 - 同母妹、一条能保室 * 妻 ** [[八重姫]] - [[伊東祐親]]三女、千鶴丸母。病死したとも、頼朝を訪ねた際に政子の為に会えへんし、悲嘆し韮山の真珠ヶ淵に身を投げたとも伝わる。 ** [[北条政子]] - 正室、[[北条時政]]娘、頼家・実朝・大姫・乙姫母 ** [[亀の前]] - 良橋太郎入道娘 ** 大進局 - [[常陸入道念西]](藤原時長、[[伊達朝宗]])娘。三男・貞暁の母 * 子女 ** 長男:千鶴丸 - 伊東祐親に殺される。享年3。一部では生存してて[[甲斐源氏]][[逸見氏]]に預けられ、[[島津忠久]]となり九州の大名[[島津氏]]の祖となりよったゆう説もあるが傍証はへん。 ** 長女:大姫 - 源義高婚約者。享年20 ** 次男:[[源頼家]] - 二代将軍。[[伊豆]][[修善寺]]に流され殺される。享年23 ** 三男:[[貞暁]] - 妾・大進局の子、仁和寺で仏門に入る。享年46 ** 次女:[[三幡|乙姫]]([[三幡]]) - 頼朝の死の5ヶ月半後に死去。享年14 ** 四男:[[源実朝]] - 三代将軍。頼家の次男・[[公暁]]に殺される。享年28 == 家人 == 頼朝の家人のようけは、[[関東地方|関東]]に住む[[武士]]やったちうわけや。彼らの家は、頼朝の先祖である[[畿内]]の[[河内源氏]]の[[源頼信]]、[[源頼義]]や[[源義家]]から恩を受けており、頼朝の父・[[源義朝]]に従っとった者も多い。頼朝はその縁を生かして彼らを従わせ兵を挙げたちうわけや。また挙兵後には、[[平氏政権|平家の天下]]の下で苦しんどった同族兄弟が、ようけ集まり従っておる。関東平定後は、[[京都]]から[[公家]]を鎌倉に招き、政務の助けとしたちうわけや。これら頼朝に仕えた家人は、[[御家人]]と呼ばれ、諸国の[[守護]][[地頭]]に任じられ、子孫は全国に広がっていったちうわけや。以下に主な家人を列記する。 {| width="100%" |- | valign="top"| * [[北条時政]] - 義父 * [[北条義時]] - 義弟 * [[安達盛長]] * [[佐々木定綱]] * [[佐々木盛綱]] * [[佐々木経高]] * [[佐々木高綱]] * [[三浦義澄]] * [[工藤茂光]] * [[工藤祐経]] * [[土肥実平]] * [[岡崎義実]] * [[天野遠景]] * [[加藤景廉]] * [[大庭景義]] * [[和田義盛]] - 侍所別当 | valign="top"| * [[千葉常胤]] * [[東胤頼|千葉胤頼]] * [[上総広常]] - 誅殺 * [[梶原景時]] - 侍所別当 * [[梶原景季]] * [[葛西清重]] * [[足立遠元]] * [[畠山重忠]] * [[河越重頼]] - 誅殺 * [[江戸重長]] * [[宇都宮朝綱]] * [[八田知家]] * [[伊達朝宗|常陸入道念西]](伊達朝宗) * [[伊佐為宗]] * [[佐竹秀義]] * [[比企能員]] | valign="top"| * [[小山朝政]] * [[結城朝光]] * [[下河辺行平]] * [[下河辺政義]] * [[大江広元]] - 政所別当 * [[三善康信]] - 問注所執事 '''兄弟'''(いずれも異母弟) * [[源範頼]] - 流刑 * [[阿野全成]] * [[義円]] * [[源義経]] - 追放 | valign="top"| '''源氏''' * [[平賀義信]] * [[大内惟義]] * [[源頼隆]] * [[浦野重遠]] * [[武田信義]] * [[一条忠頼]] - 誅殺 * [[武田信光]] * [[加賀美遠光]] * [[安田義定]] - 誅殺 * [[新田義重]] * [[新田義兼]] * [[足利義兼]] * [[源頼兼]] * [[源広綱]] * [[源有綱]] - 追放 * [[源光行]] - 文官 |} == 脚注 == {{reflist}} {{脚注助け船}} == 参考文献 == * 石井進 『やまとの歴史 7 鎌倉幕府』 [[中公文庫]]、1974年。 * [[河内祥輔]] 『頼朝の時代』 [[平凡社]] * [[高橋富雄]] 『征夷大将軍』 [[中公新書]] * 野口実 『武家の棟梁の条件』 中公新書 * 山本幸司 『頼朝の精神史』 講談社選書メチエ * 小長谷正明「脳神経疾患病棟・特別室(4) 征夷大将軍の落馬 源頼朝の死」『ブレインナーシング』、20巻3号、メディカ出版、P.316-319、2004 == 関連項目 == {{Commonscat|Minamoto no Yoritomo}} ; 史料 * 『[[吾妻鏡]]』 - 鎌倉時代末期に編纂された歴史書 * 『[[玉葉]]』 - [[関白]][[九条兼実]]の日記 ; 物語 * 『[[平治物語]]』 - [[鎌倉時代]]前期に成立、[[平治の乱]]を描いた物語 * 『[[平家物語]]』 - 鎌倉時代前期に成立、[[平家]]の栄枯盛衰を描いた物語 * 『[[源平盛衰記]]』 - 鎌倉時代後期に成立、源平の盛衰を描いた物語 * 『[[曾我物語]]』 - 南北朝時代よりどエライ昔に成立、[[曾我兄弟の仇討ち]]を描いた物語 ; 研究書 * 『読史世論』 - [[江戸時代]]中期の[[新井白石]]著、[[儒教]]倫理から頼朝の批評を行っておる。 ; 史跡 * [[三嶋大社]] * [[鶴岡八幡宮]] * [[畑毛温泉]] * [[狩宿の下馬ザクラ]] * [[陣馬の滝]] * [[井草八幡宮]]([[東京都]][[杉並区]]) - 頼朝が松を手植えし奉献した記録の残る神社。[[昭和48年]]に枯れたさかい、樹根の一部を回廊内で常時展示しておる。 * [[伊豆山神社]] - 頼朝・政子に縁の深い神社。 ; 祭事 * [[源氏まつり|川西源氏まつり]] * 源頼朝旗揚げ武者行列 - [[湯河原町]][[五所神社]]~JR[[湯河原駅]] * 頼朝祭り - 三嶋大社 ; 大衆文化 {{See|源頼朝が登場する大衆文化作品一覧}} ; その他 * [[源氏嫡流]] == 外部リンク == * [http://www.hachimangu.or.jp/index2.html 鶴岡八幡宮] {{先代次代|[[河内源氏|河内源氏棟梁]]|7代|[[源義朝]]|[[源頼家]]}} {{先代次代|[[鎌倉将軍一覧|征夷大将軍(鎌倉幕府初代)]]|第6代:1192年 - 1202年|[[源義仲]]|[[源頼家]]}} {{鎌倉幕府将軍}} {{DEFAULTSORT:みなもと の よりとも}} [[Category:河内源氏|よりとも]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:征夷大将軍]] [[Category:静岡県の歴史]] [[Category:神奈川県の歴史]] [[Category:鎌倉市]] [[Category:1147年生]] [[Category:1199年没]] [[ar:ميناموتو نو يوريتومو]] [[ca:Minamoto no Yoritomo]] [[de:Minamoto no Yoritomo]] [[en:Minamoto no Yoritomo]] [[es:Minamoto no Yoritomo]] [[eu:Minamoto no Yoritomo]] [[fi:Minamoto no Yoritomo]] [[fr:Minamoto no Yoritomo]] [[he:מינאמוטו נו יוריטומו]] [[hu:Minamoto no Joritomo]] [[id:Minamoto no Yoritomo]] [[it:Minamoto no Yoritomo]] [[ko:미나모토노 요리토모]] [[nl:Minamoto no Yoritomo]] [[pl:Yoritomo Minamoto]] [[ro:Minamoto no Yoritomo]] [[ru:Минамото но Ёритомо]] [[sl:Minamoto no Joritomo]] [[sv:Minamoto no Yoritomo]] [[uk:Мінамото но Йорітомо]] [[vi:Minamoto no Yoritomo]] [[zh:源賴朝]] 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 Text is available under GNU Free Documentation License.
鎌倉の歴史上の人物 源頼朝
鎌倉の歴史上の人物 源頼朝の人物像を紹介 ... 源頼朝(1147〜1199)は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。 ... 伝源頼朝像 =足利直義ちう研究者もおりまんねんが、ここでは源頼朝像として掲載しとりまんねん。 ...
http://www.kamakura-burabura.com/jinbutuyoritomo.htm
鶴岡八幡宮
... 敗れて洞窟に身を隠しておる源頼朝公を見付けながらも、 ... 伊豆の豪族やった北条時政の娘として生まれた政子は、源頼朝公と熱い恋に落ちる。 ... 1180年の源頼朝公の挙兵に一族で参加、頼朝公の深い信頼を得るに至ったちうわけや。 ...
http://www.hachimangu.or.jp/about/history/index.html
源頼朝 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
みなもとのよりとも【源頼朝】 (1147〜1199)鎌倉幕府(かまくらばくふ)の初代(しょだい)将軍(しょうぐん)。 〔平氏(へいし)をほろぼす〕 源義朝(みなもとのよしとも)の3男。 平治(へいじ)の乱(らん)に初陣(うい ...
http://kids.gakken.co.jp/jiten/7/70005852.html
源頼朝 - アンサイクロペディア
ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「源頼朝」の項目を執筆しとりまんねん。 ... 源頼朝。 こへんなんで義経を裏切るとは ... この源頼朝は、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品であるんや! ...
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源頼朝 - あのひと検索 SPYSEE [スパイシー]
源頼朝 - あのひと検索SPYSEE[スパイシー]は、ひとに関する情報をウェブから取り出し、 ... 源頼朝とは. 生涯. 出生. 平治の乱. 伊豆の流人. 挙兵. 関東平定 ... 源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、 ...
http://spysee.jp/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
源頼朝 とは
源頼朝とは? 鎌倉幕府の初代将軍や。 ... これについては、源頼朝の最期が不名誉な内容やったため、徳川家康が「名将の恥になるようなことは載せなあかんではおまへん」として該当箇所を隠してしもたともいうが、吾妻鏡には徳川家以外に伝来する諸本もあり、事実ではおまへん。 ...
http://www.weblio.jp/content/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
源頼朝とは - goo Wikipedia (ウィキペディア)
源頼朝とは?goo Wikipedia (ウィキペディア) 。出典:Wikipedia(ウィキペディア)フリー百科事典。 ... 源 頼朝(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将であるんや。 ...
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
源頼朝 とは - Wikipedia@pedia
源頼朝に関する説明 ... 源 頼朝'''(みなもと の よりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将であるんや。 ... 現在は源頼朝公墓前祭が、毎年4月13日の命日に、鶴岡八幡宮の神職により行われておる。 また日光東照宮で春と ...
http://wikipedia.atpedia.jp/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D
名品紹介
A:顔部分. B:袍文様部分. 全図. 源頼朝像(みなもとのよりともぞう) 絹本著色 ... 神護寺仙洞院に、後白河法皇像とともに安置されとった源頼朝、平重盛、藤原光能(みつよし)、平業房(たいらのなりふさ)の画像のうちの一部とみられ、他に光能像が残っておる。 ...
http://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kaiga/shouzouga/item01.html
国宝への道 いざ!京都国立博物館へ
国宝への道 いざ!京都国立博物館へ. 会期:平成20年11月6日(木)〜12月7日(日) 場所:平常展示館 絵画8、9、10室、書跡13室. 源頼朝像 神護寺蔵. 国宝 平重盛像 神護寺蔵 ... 国宝 源頼朝像(神護寺蔵)はじめ20件におよぶ国宝を展示しまっせ。 ...
http://www.kyohaku.go.jp/jp/tenji/kokuhouroad.html
-伊豆山温泉旅館組合- 源頼朝・北条政子出逢いの地
源頼朝・北条政子出逢いの地、熱海伊豆山温泉!伊豆熱海の宿泊施設・イベント等様々な情報をご紹介いたしとりまんねん。 ... 源頼朝・北條政子出逢いの地 熱海伊豆山温泉. 伊豆山温泉観光協会・伊豆山温泉旅館組合公式ホームページ. 〒413-0011 ...
http://www.izusan.com/index.html?link=top
やまとの墓:著名人のお墓:源頼朝
「源頼朝はなして人気がやへんんやりまひょ。 やまとの歴史上で、この世におぎゃあいうて生まれてはじめて武家政治である鎌倉幕府をつくりあげた偉大な政治家なのやけど」思えてやったらへん。 当時の記録『吾妻鏡』は、頼朝の政治の様はよう書かれておるが、人間関係はええ点数ではおまへん。 ...
http://www.hakaishi.jp/tomb/tomb/05-5.html
鎌倉幕府
今日は源頼朝はんに聞きたい事が二つあんねん。 一つはなんで鎌倉幕府をつくったか? ... 源頼朝. あのー何ゆうとるかさらさらわかんへんんやけど。 おんどれにゃーわからんやろな。 ... 源頼朝. ・・・あんまりしてしまへん.・・・ よし、わかりやすくゆうたるとな、 ...
http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/kamakurabakufu.htm
くもん出版 : 源頼朝
くもん出版トップ. サイトマップ. 文字サイズ. 小. 中. 大. くもん出版. 買い物かごをみる ... 学習書・じてん. 児童書. 教育書・一般書 ... 源頼朝. 監修:石井 進 / 指導:宮崎 章 / まんが:山口 太一. 販売価格 : ...
http://www.kumonshuppan.com/jsp/jsp/category/kobetu2.jsp?shohin_no=36315&shohin_kbn=2
源頼朝(1147-1199)
建久9年12月27日、初めて武家政権を樹立した源頼朝が落馬して大けがを したんや。 ... その記念の式典に出席して帰りの出来事やったちうわけや。 源頼朝は平治の乱(1159)で平清盛に敗れた源義朝のボウズや。 平治の乱で勝利をおさめた ...
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-kama/yoritomo.htm
源頼朝
源頼朝公産湯の井と伝ふ. 源頼朝の墓. 源頼朝の墓 ... 平安時代末に源頼朝の父・義朝は、野間大坊で暗殺。 常盤御前の墓. 岐阜県不破郡関ヶ原町 ... 源頼朝. 源頼朝がこの地を通ったんは、建中元年(1190) 10月、露の季節やったちうわけや。 ...
http://sakuraoffice.com/minamotonoyoritomo.html
源頼朝 武家政治をひらいた 左翼近義親 木俣清史 講談社
講談社:源頼朝:武家政治をひらいた:左翼近義親:木俣清史 ... 講談社創業100周年記念出版. ディズニーが贈る妖精たちの物語。 講談社の美術書が満載! ... 源氏の一族をひきおる総大将、源頼朝は、平家を壇ノ浦にうちほろぼし、 ...
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=147557
三浦半島の歴史:鎌倉市西御門・源頼朝の墓
この場所から、源頼朝が作った大蔵幕府を一望するっちうことができまんねん。 ... 源頼朝は、平治の乱の後、伊豆の蛭ヶ小島に流されたちうワケやわ。 ... 1213年(建保元年)、和田義盛の乱で幕府の建物ずぅぇえええぇぇええんぶが焼かれ、3代将軍源実朝は幕府背後にある源頼朝の法華堂に避難しとりまんねん。 ...
http://sorairo-net.com/rekishi/kamakura/nishimikado/002.html
源頼朝
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源頼朝 みなもとのよりとも. 久安3年(1147年)〜建久10年1月13日(1199年2月7日) ... (1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証として有志の ...
http://www.geocities.jp/bane2161/minamotonoyoritomo.html
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